caguirofie

哲学いろいろ

#147

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第二節b 欲情のない生殖としてのアマアガリの時間

・・・アウグスティヌス自身は 次のように すでに引用した言葉にあったように《弁明》しつつ しかしその中にも さらに史観を正当にも展開させている。人は このキリスト者 地上におけるこのキリスト者を見なければならない。

わたしたちが今 述べていることは 今日では恥ずべきことである。わたしたちは それが恥ずかしく感じられる以前はどうであったかを可能な限り考えてきたが この議論は役立たない雄弁を用いて先へ進めるよりは むしろ羞恥心の訴えによって抑制するのがよいであろう。というのも わたしが述べたことを経験できたはづの人びとでさえ 実際には経験しなかったとすれば(なぜならかれらはすでに罪を犯していた〔第一の死を死んでいた〕ので 落ち着いた心で子を産むわざに入る前に楽園追放の報いを受けていたからである) たといこうしたことを想起したとしても 今日それがどのようにして恥ずべき欲情を経験しないで――おだやかな意志の判断を〔経験しないで〕ではなくて―― 人間の感覚器官に起こりうるだろうか。それゆえ 以上の話は問題を考える者にとって決して根拠のないものではないとしても 恥の感情がこれを妨げることになる。
神の国について 承前)

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