caguirofie

哲学いろいろ

#75

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第六章 理論としてのキリスト史観(2――前提をさらに理論化する)

第二節a 史観は至聖所に入る門であり 理論はその前なる幕屋である

史観が 自己の主観形成の過程〔としての人間〕であるなら その理論は つねに工事中である。この第一原則は 次のような比喩で語られるべきである。
史観が 至聖所であるとするなら 理論は その前なる幕屋である。そしてこの幕屋はむしろ立派なやしろを構えるというよりは つねに生きたかたちで建築中であってよいと。
自己の内なる八域(八城)の奥の至聖所に 聖霊なる神 すなわち 御子なる神キリストが父なる神と人間を仲介したまうて かれの名で父が派遣なさった弁護者がいましたまうというのは わたしたちの共同主観の保証される所以である。つまり わたしたちは 自己の・人間の弱さにおいて 自己の力による弁護が尽きるとも ちょうどこの自己の知解を超えてというように 知識としてではなくとも いわゆる愛もしくは生命として この弁護者によって支えられる場合がある

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