caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考

2006-04-07 - caguirofie060407に《ユダの福音書》問題について書いた小論の続考です。

はじめに

この小考の意図

・・・
ユダの福音書》には イエス・キリストの弟子ユダがローマの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従ったからとの内容が記されていたという。

13枚のパピルス古代エジプト語(コプト語)で書かれたユダの福音書は、「過ぎ越しの祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」で始まる。イエスは、ほかの弟子とは違い唯一、教えを正しく理解していたとユダを褒め、「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と、自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。
・・・

このような解釈が出てくるいきさつを考えてみました。この解釈に対する次のさらなる解釈については 意味がないということを論証するためのものです。

解読したロドルフ・カッセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

すなわち結論は ユダの行為は裏切りであり 悪だというものです。

裏切り行為だったことは 表面だけとしても 事実であり 認めねばならない
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#9

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《インタスサノヲ価格》の実際b

いま述べていることは 必ずしも 事態の先取りではない。《はじめ》の動態を たしかに 主観関係的に 洞察しているかたちである。有効な主観の社会関係のなかに 矛盾・対立があるとしたなら これに対するほとんどまだ定義の問題である。主観の有効を 離れたなら 非現実的である。つまり 有効を離れることじたいが 非現実的なのであるから――そこでは 飲めや歌えやの経験現実しかないようになる から―― このいまの議論を非現実的だとみると言っているのでさえなくなり 議論することそのものを 拒否しているのであろう。
現在に立って 過去の経過を整理し また その考察の対象たる《はじめ=出発点》が 動きであるなら 未来の先取りといった性格を これまた 持たないものでもない。
だとしたら 事は 観点をたがえて 次の二つの項目に 分かれて かかわる。一つは 《人間が変えられる》ということ。主観の過程的な関係内容が 変わるのであろうから 総括して述べれば そういうテーマになるはずである。《変えられる》かどうか わかったものではないとしても 議論のテーマは 一つに それである。
もう一つは やはり 権力の移行 これである。余分な議論を ここから導かないためには いま権力にある人びとが 人間として 変わるという第一の項目を ここにあてはめ このような単純で幼稚な説明を これには あたえておこう。
で なおかつ 《人間が変わる》という第一の項目は 或る種 文学・思想的に《原理としてのはじめ》にかかわるであろうから そして 《権力が変わる》という第二の項目は 《経済学にとってのはじめ》そのものではないから ここでは やはりさらに 《出発点》を考察しつづけることになる。《人間・社会・歴史》というはじめの動態を考察することによって 上の二つのテーマにも 見通しとか展望とかとして 言い及ぶことができれば ありがたいわけである。必ずしも それを目指すということではない。

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