caguirofie

哲学いろいろ

#11

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§20 《転ぶ・転ばぬ》に関係なく

わたしたちは それでも 《沈黙》の議論は ここに至っても つづくと思うのです。たとえば次のような一節を聞くとき。

・・・フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。
 ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害のせいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ。
フェレイラの言葉は一語一語 司祭(ロドリゴ)の耳に刺のようにさす。
沈黙 (新潮文庫) Ⅶ)

ここで 第一に 《切支丹》であろうがなかろうが 人間はその身体とともに朽ちるべき存在である。

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