caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§34(その主人公セラドンと愛)

つづいて第五の事項。以上の前提的な考察のあと もし このアストレとセラドンとの悲劇を 新しい生活態度において克服しようとするそのときには まずは一方で フェードルやクレーヴの奥方がおこなったように 激情を古典古代の神々と見なすところを去り 《ここ》に還って来て 作者デュルフェがではなく 登場人物のアストレやセラドンが そういう経験心理の動きなのだとして とらえきるという方向――すなわち フェードル(これも ギリシャ悲劇の主人公であるにもかかわらず)らが やはりまだ悲劇に終わったとしても もはや 情念を神々とは見なしていない もしくは 人間たる自己の内に経験偶有的に働くところの神々であるととらえるようになっている―― この方向を 展開していくことが試みられるであろうし
他方では じっさいに言えば その道具・補助手段として デカルトのように合理思考の展開――だから 生活基礎としては 経済的な所有(労働)の 合理必然的な行為関係の社会一般化――を促していくこと および ホッブズのように この合理思考とその必然行為の関係を 社会全体にも(すなわち この場合 国家という形態制度にも)及ぼすとともに その場ないし交通関係の法律として 具体的な規範をつくりあい 仕上げること これらの実践が 登場することになる。《気取ら》ないで そうすることが 課題となっていった。

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義経

もくじ→2004-12-29 - caguirofie041229
NHK《鎌倉の陰謀》
政子が頼朝に 義経の処理を自分にまかせてくれと申し出た。
これは まだ全部 頼朝のおこなう判断であり行為である。もし頼朝が自分から義経殺害のことを言い出さなかったのだとしたら それは なんらかのかたちでかれが弱いということであろう。(逆のばあい つまり 殺さなくともよいと見ていたとすれば 強いからだと採る見方もできるのかどうか。)
政子は政子で 自分のシナリオがあるのかもわからないが 今回の刺客の問題は 頼朝の裁量の範囲内にあるとわたしは見た。
要するに 政子の活動を 別のものとして捉える必要は まだ出て来ないということ。