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古事記受容史 (上代文学会研究叢書)

古事記受容史 (上代文学会研究叢書)

古事記受容史 (上代文学会研究叢書)

論文集である。

松本直樹:先代旧辞本紀の《神話》――古事記神話の引用(pp.34−58)

旧辞本紀の評価は悪いようである。
旧辞紀の〈神話〉の受容の態度》として

旧辞紀神話」は 記・紀の「神話」要素を網羅し さらに古語拾遺独自の要素までを取り込み そこに若干の独自伝承(巻四・兼永本34丁のオホナムチ(=三輪神)の伝承およびニギハヤヒ降臨神話)を加えた形で成り立っている。その網羅のしかたは徹底的であって 例えば天地創成直後から所謂神世七代に現れる神々の おびただしい数の神名が殆ど認められるし スサノヲの乱行や鳥によるアメワカヒコの葬儀 海神がホホデミに授けた呪術の要素など 筋の展開にとって必ずしも全てが必要ではない要素までを悉く載せている。ただ 歌謡についての興味はうすく 歌そのものを省略することが多いが 大抵の場合 歌があったことまでを無視してはいない。・・・
こうした網羅主義は 当然のことながら多くの矛盾や重複を生み出してしまう。・・・(例示がある)・・・
多くの矛盾を容認しながら 記・紀諸伝を網羅している「旧辞紀神話」において ニギハヤヒに関わる天孫降臨については ほぼ矛盾することなく語られている。・・・(説明)・・・
神話という型の力に頼りながら自らの主張を行うこと 即ち新たな「神話」を作り出そうとする行いには 既存の神話の処理が必ず必要になるだろう。既存の神話を無視したり 似ても似つかない形に変えてしまうのではなく それを甘んじて受けとめることで 神話の力を保持し その上に独自の主張をかぶせてゆく姿勢が求められたのではないだろうか。
(引用者による改行)例えば日本書紀は 本書と複数の一書を併記する網羅主義をとる。本書と一書には格差が儲けられているが ひとつの「神話」の絶対化が果たされているとは言えない。それに対して古事記は 日本書紀本書と一書に含まれるような内容を 多く本文中に採用しているが 日本書紀ほどの網羅は果たしていない。一本化による「神話」の絶対性を確保する道がとられている。
(引用者による改行)旧辞紀の「神話」は 日本書紀のように網羅的であり 古事記のように一本化されている。その結果生じる明らかな重複や矛盾について 苦し紛れとも思われる調節 合理化が図られていて 重複や矛盾は旧辞紀述作者の承知するところであったと思われる。「旧辞紀神話」の大部分を占める 記・紀等からの引用部については 旧辞紀の積極的な自己主張が認められないと言えよう。全てを受け入れ しかも無理にでもそれを一本化することで 権威ある聖典としての「神話」の力を最大限に保つことにのみ精力が注がれているように思われる。・・・
(pp.34−39)

工藤浩:『先代旧辞本紀』人代記事・「国造本紀」本文の構成(pp.59−77)

つまり神話を除いた部分だが これについても 評判はわるいほうである。まず全体として

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