Midi-Pyrenees
gorges de Tarn
――シンライカンケイ論――
もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407
第二部 シンライカンケイについて――風の理論――
(2005-04-21 - caguirofie050421よりのつづきです。)
第四十五章 本覚思想という好悪原則を批判する《批判仏教》・その出発点
関連した議論として 袴谷憲昭氏の《批判仏教》の思想を取り上げたい。
- 《本覚思想批判》・《批判仏教》・《道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元》また 同趣旨と思われる松本史朗著《縁起と空―如来蔵思想批判》を合わせて これらによってその議論を取り上げ それらを検討する過程で わたしたちの主張を補足するというかたちを取りたい。
それは すでに触れていたように 出発点における《わたし》は わたしであって わたしではない――あくまで 一個人として意思表示するわたしであって なおかつ ただひとりわたしだけのことだというのではない―― その点にかかわってのものである。仏教では これを 《無我 an-atman》と言っていて その議論に絡むのがよいと思われた。
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支那(シナ)を何故差別用語にしたのでしょうか。Chinaをローマ字読みすると「シナ」ですし語源が秦からきているので何故なのか分かりません。漢字がだめなら、カタカナで書けばいいと思うんですが。教えてください。
相手のあることで 相手が感情を害するというのであれば 仕方のないことだが たしかに欧米の呼び方は 続いているという状況だと思われる・・・。