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哲学いろいろ

スサノヲ市民は 一階から二階へアマアガリしてアマテラス政治家になるとき 人が変わるか?


1. まづ ヱーバーの言うところを聞いてみよう。:

▲ (M.ヱーバー:政治と悪魔) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2. およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする
者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。

3. 無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ
〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 
インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなか
った。
 
4. 彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼ら
は昔も今もこの世に影響を与え続けている。
 
5. 〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く
聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。
 
6. 自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法に
よって求めはしない。

7. 政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決でき
るような課題がある。


8. 政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教
徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そ
んな内的な緊張関係の中で生きているのである。
    (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100 )
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9. 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデ
ーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうなのでしょうか どうでしょう
か?




10. お二階さんであるアマテラス公民ないし国家公務員については――そ
れはいわゆる幕藩体制の時代からのお上であって―― 無謬性というしるしが 
神話としてのごとく添えられて来たという歴史があります。

11. 神聖にして侵すべからずでした。《斬り捨て御免》というナラハシに
代表されるごとく たとえかれらアマテラスびとに非があったとしても 一階
の住民たるスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなか
った。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。

12. つまり 《あやまち得ざるアマテラス公民》という姿は そのデーモ
ンが: 
▲ ブッダなる慈悲の神とさえも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するか
も知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きている
☆ ゆえにこそ アマテラスびとが自己防衛のために敷いた予防線なのか?

13. 不祥事がもし不祥事であるとしたら つまり そうだとしても みづ
からが身に着けた《デーモン》が――それは守護霊でもあるのだから―― す
なおになることを・ましてや あやまることを ゆるさないのか?
(ちなみに タレントも アマテラス公民だろうか?)



14. アマテラス公民の無謬性というナラハシは 弱まり その神聖不可侵
というクウキは うすらいで来ています。では そのとき 《職業としての政
治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うてみます。

15. そもそも ヱーバーの説が あやふやだと言ってよいのか。それとも
悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシ
ュな動物的な・別種の魂が アマテラス政治家には必要なのだと言うべきなの
か?


16. 経験がないものどうしになるかと思いますが みなさんは どう考え
ますか?

17. アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民の連関制から成る国家にあって 一階
から二階へとアマアガリするとき その人は 何らかのかたちで変身すると見
るべきでしょうか?

18. もしそうだとしたら へんな変身をしないようにするには どうすれ
ばよいか?