caguirofie

哲学いろいろ

《ねたむ神》

ねむりねこ 2016/09/11 16:56

こんにちは。

質問と回答を拝見しました。

私が回答するのであれば、私も、おそらく、
No.4さんと同じように形容詞と動詞の違いについて書きましたね。
ただ、それだけで終ったらつまらないので、話を際限なく膨らませますけれど(^^)

文型? S+形容詞
文型? S+動詞(+目的語)

文型Iと?では、同じ主語でも、主語の役割が違いますよね。文型?では、動作の主体、(他者に)働きかけをする主体として主語Sが設定されています。
しかし、文型Iの場合は、ペチカのある場、我が家は楽しいという話者の心的な表明に過ぎない。
もっとも、文型?の場合でも、話者を楽しいと感じさせる存在としてSを設定することは可能でしょう。日本語には物主語は極めて得意な存在ですけれど、英語を始めとするヨーロッパ系の言語ならば、物主語はそれほど珍しいものではなく、日常的に使用されますし。

そして、
文型Iの拡大、つまり、われわれ人間に何何をそう感じさせるモノとしての主語と考えると、
妬む神、怒る神は別な解釈が可能なのでしょう。
このとき、妬む、怒るのは神ではなく、われわれ人間ということになる。
そして、このときの神は、人間がそう思うように仕向けるもの、あるいは、そのように働きかける超越的な――いまのところその正体がわからないから、とりあえず、超越的という言葉を使用しているに過ぎない。運命的な、宿命的な、生得的なと言ってもいいのかもしれない――???ということになるのでしょう。

かなり無理があると思いますが、このように考えることも可能なのかもしれませんね。
bragelonneさんは、こうした運命論的な、イスラム教的な、何もかも、神のはからいであり、われわれ人間はこうしたはからいに抗うことはできない、という考え方は取らないでしょうけれど、このように考えることもできるのではないでしょうか。

例えば、こんな感じです。

bragelone

この はてな では ローマ数字が文字化けするようです。昔から。


ねむりねこ 2016/09/11 16:59

文字化けしているようなので、文字化けしている部分をあらためて送ります。

文型1 S+形容詞
文型2 S+動詞(+目的語)

文型1と2では、同じ主語でも、主語の役割が違いますよね。文型2では、動作の主体、(他者に)働きかけをする主体として主語Sが設定されています。
しかし、文型Iの場合は、ペチカのある場、我が家は楽しいという話者の心的な表明に過ぎない。
もっとも、文型1の場合でも、話者を楽しいと感じさせる存在としてSを設定することは可能でしょう。日本語には物主語は極めて得意な存在ですけれど、英語を始めとするヨーロッパ系の言語ならば、物主語はそれほど珍しいものではなく、日常的に使用されますし。

そして、
文型2の拡大、つまり、われわれ人間に何何をそう感じさせるモノとしての主語と考えると、
妬む神、怒る神は別な解釈が可能なのでしょう。
このとき、妬む、怒るのは神ではなく、われわれ人間ということになる。
そして、このときの神は、人間がそう思うように仕向けるもの、あるいは、そのように働きかける超越的な――いまのところその正体がわからないから、とりあえず、超越的という言葉を使用しているに過ぎない。運命的な、宿命的な、生得的なと言ってもいいのかもしれない――???ということになるのでしょう。

bragelone

お答えをありがとうございます。(OKWave の《倒産》のうわさが気に成ったものですから
ちょっと尋ねてみました)。


◇ そして、このときの神は、人間がそう思うように仕向けるもの、あるいは、そのように
働きかける超越的な――いまのところその正体がわからないから、とりあえず、超越的とい
う言葉を使用しているに過ぎない。運命的な、宿命的な、生得的なと言ってもいいのかもし
れない――???ということになるのでしょう。
☆ ねこさんから こういう見方を聞くことになるのは おどろきですね。


わたしの立ち場は すでに推測してもらっているように もしたとえ《超越的なナゾのチカ
ラが人間におよぶと見たとしても その及び方は けっきょく人間には分からない》という
ものです。


(もう少し詳しく書きますと 中には おれにはその神のチカラが分かった 神のわざが及
ぶところを見たのだと言い出す人間がいるかも知れない。そのとき ただしこの人の神体験
は 決して他の人と中身を共有することはあり得ない。けれども その神体験の発言を封じ
ることも出来ない。


なぜなら もし神のわざを見てそれを概念的にでも複数の人間が共有しえたとすれば その
神だという中身は 人間の能力が認識しうるものでしかない。人間を超えていない。


同じくなぜなら その神体験を否定したとしたら その中身を理性的に人間が認識しえたと
いうことになる。それは あり得ない。《非経験の場 ないし 絶対》ではなくなる)。


           *

◇ 文型2〔 S+動詞(+目的語)〕では、動作の主体、(他者に)働きかけをする主体とし
て主語Sが設定されています。
☆ この《他者へのはたらきかけ》は たぶん《あわれむ》の場合だと思われます。


《ねたむ・怒る》は その対象があるにはありますが 他動詞としてのはたらきかけには当
たらない。


ただし この神が《あわれむ》という場合は けっきょくやはりその対象はもちろんありま
すが 細かく言えば その対象(つまり 人びと)に対して 《慈愛深くある》といった意
味であり そのようにほとんど形容詞である場合にとどまると思われるのです。


先ほど 神体験のもんだいで考えましたが 確かに《実際の他動詞としてのごとく 相手を
あわれむ・いつくしむ・めぐみをあたえる》といった場合も考えられます。考えられますが 
それも同じく考察したように その人本人だけの主観の内にとどまるものです。


つまり 神による実際のわざが 誰にも分かるように《他動詞》としてはたらいたという場
合は まづ除外される。のではないか。



つまりこれらの問題は 《人 対 人》ではなく《神 対 人》という特殊な場合であるこ
とを物語っているはずです。
(その意味で ペチカや我が家や教室といったモノが《主語》の場合を例に挙げています)。


という特殊な《動詞・形容詞》の用法の場合として見ることにおいて:
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
文型1の拡大、つまり、われわれ人間に何何をそう感じさせるモノとしての主語と考えると、 
妬む神、怒る神は別な解釈が可能なのでしょう。
このとき、妬む、怒るのは神ではなく、われわれ人間ということになる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ このように帰結されると思うのですがねぇ。



◆ 2チャンネル
☆ というのは いちど挑戦するにあたいしますか?

ねむりねこ 2016/09/11 17:02

すいません、
【誤】文型2の拡大、つまり、われわれ人間に何何をそう感じさせるモノとしての主語と考えると、
【正】文型1の拡大、つまり、われわれ人間に何何をそう感じさせるモノとしての主語と考えると、

ですね(^^ゞ

ねむりねこ 2016/09/11 17:35

さらに話をふくらませますと、次のようになるのでしょうか。

妬む神(妬ませる神)、怒る神(怒らせる神)をスケープゴート、もしくは、悪者にすることによって、自身を正当化するとともに、「神さまの思し召しだから」と自身を納得させる。不満足な現実を受け入れる道具として神を利用している。

これは、はたして、正しい神観、神のとらえ方、解釈なのだろうか。

道中は違いますけれど、同じ所に落ち着くのではないでしょうか。

bragelone

◇ 神の スケープゴート視・悪者扱いしうる道具視
☆ これは 例の《神は人間がつくった概念に過ぎない》という神観ですね。
人間の思いや願いを投影したのが神だという。


全知全能という性格は 人間の何を投影したのだろうか。