caguirofie

哲学いろいろ

cotswolds

自然科学の追究したその果ての世界認識としては・・・


まづ 自然科学といういとなみ またその認識成果――これらも
精神のハタラキである。というのは 大前提である。


自然科学の認識が果てにまで達したと思われたとき その成果によ
れば 生物や人間は それぞれその思うがままに生きることが も
っともその存在のあり方にかなっているのだと分かるということ―
―こういう結果になることはないか?


つまり いま現在 精神科学(人文科学および社会科学)は その
ような見透しのもとにその学問をおこなっている。はずです。


《自由――存在ないし意志の自由――》ということですね。




あとは この《自由》に ヘソの曲がりや曲げも出て来るという問
題がある。


ゆえにナチスの犯罪までをふくめたへそ曲がりなる心的現象および
状態については 一視同仁また和光同塵という視点でのぞむよりほ
かに道はない。


この道が われわれのいま現在の実存にとっては およそひとしく
自然におよび必然として行き着くところとなる。
――という仮説。

自然科学のあゆみを俟ってらんないというふくみがあります。