必然・偶然
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%92%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%99
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
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☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
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『荘子』内篇 万物齋同に
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「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
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☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
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☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。