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?.疎外された精神の世界
疎外された精神の世界は二つに分裂する。一つは、現実の世界ないし疎外された世界であり、
いま一つは、精神が第一の世界を超えて純粋意識の境地に入りこんだところで打ちたてる世界である。
が、疎外された世界に対立する第二の世界は、だからといって疎外をまぬがれているわけではなく、
むしろ、疎外のもう一つの形態にすぎない。そもそも意識が二つの世界にまたがることが疎外であって、
どちらの世界にも疎外はつきまとっている。だからここで考察の対象となるのは、絶対神を完全無欠な形で
意識する宗教ではなく、みずから完全無欠な形をとりえないまま、現実の世界から逃避する「信仰」のありようである。
かくて、現在の王国からこの逃避は、それ自体がそのまま二重の逃避となる。精神は純粋意識という境地をめざして
高まっていくのだが、この境地は信仰の場であるだけでなく、概念の場でもあるのだ。こうして、信仰と概念が
たがいに肩を並べて登場し、信仰はつねに概念との対立において考察される。
▼ 疎外された精神の世界は二つに分裂する。
☆ 《疎外された》というのは 精神が自己の思惟を表現するとき その相対的で有限な意味内容によって言わば世界を切り取る。その切り取りが 世界を分割し いづれかの部分に重心を置く。なら 重心を置かなかった場はあたかも否定されたことになる。よそよそしいモノゴトとなる。これが《思惟の外化= 表現= 疎外》である。
《愛》と言えば そしてそれに焦点を当てるなら 《愛でないもの》は 一たんにでもよそよそしいものと成る。
○ 表現され規定されすでに分割されたもう一方の世界は 精神の疎外された世界と成ったかたちとなり そのかぎりで 二つに分裂する。
さらにあるいは 思惟し認識したことがらは それの表現によって世界を規定し そこに概念としての境界( term )を定める。つまり境界ないし果て( finis )を区切る。⇒ de-fini-tion :定義。term :術語・用語。
▲ 一つは、現実の世界ないし疎外された世界であり、
▲ いま一つは、精神が第一の世界を超えて純粋意識の境地に入りこんだところで打ちたてる世界である。
☆ 愛は 経験行為として ヱクトルであり向きを持ったチカラの作用であるが 人間の好悪・愛憎など正負の向きを持っているものとして規定される。この規定によって世界は ひとつに《好きも嫌いも 広く〈愛= 人間関係〉に属する》と表現しており もうひとつに《正負の向きを持たない人間関係は したがって 愛ではない》と言っている。
ヱクトルを成さない中立のカカワリないしマジワリは 《無関心》と呼べて 《愛の国の外にある》ことになる。《死》と呼び替えられたりする。
《無関心――これは むしろ indifference と言うからには 無差別・公平・中立である――》は 愛からはお呼びではない言わば疎外され得る《愛の死》であるらしい。
というふうに人びとの発言は価値判断をもふくむゆえ 《表現は 規定によって 疎外を生む》。
この《現実の疎外された世界》を超えてさらに 人は概念をとおして世界を高くもしくは深く見ようとする。《純粋意識の境地》を想定しこれを概念的に開拓する。
▲ が、疎外された世界に対立する第二の世界は、だからといって疎外をまぬがれているわけではなく、むしろ、疎外のもう一つの形態にすぎない。
☆ そりゃあそうだ。人間の言葉で・概念で世界を切り取ることに いくらいと高き理念の世界を目指そうとも 変わりない。やはりその概念規定をつうじて《よそよそしきもの》をも生む。《疎外のもう一つの形態》を生む。
《無差別の慈悲》に当てはまらない場合・またはこの慈悲をけなして言う場合 それは 道徳規範を守らない者として 疎外されがちである。
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そもそも意識が二つの世界にまたがることが疎外であって、どちらの世界にも疎外はつきまとっている。
だからここで考察の対象となるのは、絶対神を完全無欠な形で意識する宗教ではなく、みずから完全無欠な形をとりえないまま、現実の世界から逃避する「信仰」のありようである。
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☆ ここは分かりにくい。
▼ 絶対神を完全無欠な形で意識する宗教
☆ は あたかも人間の思惟の表現ではないゆえ(人間の表現を超えているゆえ) 《よそよそしき疎外》が起きないかのように言っている。これは マチガイであろう。
つまりこの《宗教》は
▼ みずから完全無欠な形をとりえないまま、現実の世界から逃避する「信仰」のありよう
☆ と同じことである。一方は 自分では《完全無欠》だと勝手に言っているという違いに過ぎない。
あるいはまた むしろそのように自己申告する《完全無欠な意識としての宗教》こそが それは人間において成り立っているのであるからには まったくのマチガイである。ただの思い込みであるに過ぎない。
むしろ《現実からの避けどころ》をナゾの神にもとめる信仰のほうが その不完全な境地にあると告白するゆえにこそ きわめて現実的である。それもひとつの人間の実存のかたちである。むしろ《よわきところを われわれは ほころう》というのが 現実の態度である。それでも信仰個条を読み上げるときには 《表現⇒規定・疎外》を生み得る。
ただし 《信仰》にしろ そうではないらしいが《宗教》にしろ いまは《考察の対象とする》と言っているだけであるのかも知れない。
▼ かくて、現在の王国からこの逃避は、それ自体がそのまま二重の逃避となる。
☆ いや やはり《信仰》は 《現実世界からの逃避》であるなら その《逃避》の部分がさらに加わって 二重の疎外または二重の逃避となるということらしい。
▼ 〔* 信仰にあって〕精神は純粋意識という境地をめざして高まっていくのだが、この境地は信仰の場であるだけでなく、概念の場でもあるのだ。
☆ そりゃあそうだ。言葉をとおして・概念を用いて 《現実からの避けどころ》として《信仰の世界ないし境地》をもとめたのだから。
▼ こうして、信仰と概念がたがいに肩を並べて登場し、信仰はつねに概念との対立において考察される。
☆ ということは・そこまで言うということは 《信仰》については 暗にすでにむしろ《現実の経験世界を超えている》はずだという了解を持っているとも見られる。だから《現実の経験世界にとどまる〈概念〉ないし思惟ないし想像》とは一線を画するとヘーゲルじしんは思っているのかも知れない。
だからむしろ先ほどの《宗教》のほうが――それはあくまでオシエを奉じるという大前提があるならその限りにおいて―― 《相対的な概念や思惟や想像》から自由ではあり得ないと言うべきである。この宗教をこそ問題とし考察の対象とすべきである。
○ 宗教はつねに《概念や想像》と非対立のかたちで考察される。宗教のオシエは 人間の思惟や概念や想像と地続きである。
○ 信仰はつねに《概念や想像や思惟》とは対立するかたちで・またはそれらを超えるところで――つまり《非思考》として――問い求められる。
と言うべきである。