民俗としての《へび》の問題
◆ 《へび》の問題
§ 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味
次の文献によって わたしなりの分類をします。
▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html
○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) 〜〜〜
(α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂
(β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
あらぶる者:悪魔::荒魂
(γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
(δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。
(ε) ゆえに エロスを象徴。
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§ 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。
併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。
この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。
§ 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。
言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
こういう見方を持ちます。
§ 4 この場合のムイシキは
(ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
=リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ
のことです。
§ 5 ムイシキの逆襲(?)
リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。
その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。
すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。
§ 6 ムイシキとは 亡霊なり。
ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。
§ 7 聖書におけるヘビの克服物語
イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。
いちおう理屈をつければ こうです。
悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。
イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。
§ 8 聖書の関係個所を引きます。
▲(創世記3:14−15) 〜〜〜〜
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
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☆ この部分すなわち
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彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
~~~~~~~~~~~~~
という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。
§ 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――
▲ (民数記21:6−9・・・《青銅の蛇》) 〜〜〜〜
〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
民はモーセのもとに来て言った。
「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
わたしたちから蛇を取り除いてください。」
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
を見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
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§ 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――
▲ (ヨハネによる福音3:14−16) 〜〜〜〜
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
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§ 11 いかなる事態であるか?
もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?
感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。
理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。
ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。
第二部 日本の民俗におけるヘビのお話
§ 12 谷戸の神から夜刀の神へ
● (夜刀神=ヰキぺ) 夜刀神(やつのかみ、やとのかみ)は、『常陸国風土記』に登場する日本の神(蛇神)である。
☆ とその記事は書き始めています。《やと》とは 元は谷戸のことで 谷状の土地を言います。ちなみに このようなかたちの土地を 東では《さは(沢)》と言い 西では《たに》と言って分かれていたそうです。すなわち
● (谷戸=ヰキぺ) 〜〜〜
谷戸とは、
丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。
また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。
谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
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☆ 谷戸の土地を農耕に利用したというところが 重要です。
§ 13 谷戸を開墾し へびに出会った。
上なる世界を《タカ〔ア〕マノハラ(高天原)》と言い 地下を《根の国》と言うとき 中間の陸地を《アシハラ(葦原)の中つ国》と言っていたように そこはまだまだ湿地が多かったようで人びと(縄文人また弥生人)は 山の中腹にまで住むところを求めて行っています。
その初めの開墾のとき 当然のようにヘビが出て来ました。言わば先住者であり これに敬意を表し 《谷戸の神》と言ったものと思われます。
生活上の守護神としては 善なる神であり 《なほびたま(直毘魂)》です。
あらぶる力であれば 悪なる神。《荒魂(あらたま、あらみたま)》です。これとの対比では 前者は《にきたま(和魂)》と呼ぶようです。
へび( § 1)⇒谷戸の神
(α)水の神⇒ 生活・生命のしるし。善なる神。⇒直毘魂・和魂
(β)水の神⇒ あらぶる者。悪なる神。⇒荒魂
§ 14 谷戸の神と《草分けの人と家》
『常陸の国風土記』には 谷戸の神と 《打ち殺せ》とまで言って闘ったとあるそうです。境界線を決めてあとは 谷戸の神をうやまってもいると。
そこには別様に
● 土地の開墾に際して自然神である山野の神霊から土地を譲り受ける「地もらいの儀礼」と見ることもできるというが
☆ とあって この様子のほうが われわれの祖先のおこないそうなことだとわたしには思えます。
《草分け》すなわち柴を刈り草を切りしてあらたな土地を耕し始めたその事また人を その後に人びとがあつまって出来たムラは大事にする。それと同じように へびさんにも先住者に対するものとしてのウヤマヒの心を忘れなかった。
だから 囲いをしてここはおれの土地だと宣言したら その所有の権利が成るというのとは ちと違う。あとは力づくでもしくは法的手続きによって奪うかどうかになるのとは ちょっと違う。自然状態は 人が人に対して狼である( Homo homini lupus.)だとか 万人の万人に対する闘い( Bellum omnium contra omnis. )だとかと言うのとも すこし違う。
でも谷戸の神を わざわざ《夜刀の神》――つまり 暗闇で足元を襲って来るといったイメージをあてはめたものでしょうか――ともその文字を替えて意味をもあらたにつけ加えている。これは 《たたかい》でもありましょうか?
§ 15 では 日本人は ヘビをエロースのしるしとして見なかったか?
次のような意味合いを 谷戸の神なるヘビに人びとは見たか?
(§ 1) 〜〜〜〜
(γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
(δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。
(ε) ゆえに エロスを象徴。
(§ 4) 〜〜〜〜
(ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
=リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ
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たぶんそういった民俗事例はいくらでもあることでしょう。ストーンサークルのような遺跡には リンガを思わせるようなかたちもあるわけで その縄文人から始まっているわけです。(たぶんそれは 原始心性であって 歴史知性を持ったあとの扱い方や感覚とは違うものと思われます)。ですが 問題は あまりそのことの特別視は していない。というのが 基調ではないであろうか?
たとえばエロスは ブディズムが入って来てから 例の理趣経でしたかの愛欲論を真言宗が 密教の中におさめたもののようです。
§ 16 リビドーをそれとして受けとめ ムイシキを《わたし》のミクロコスモスの中におさめる。
日本人は このリビドーを ちょうど谷戸の神との共生を図ったように おのれの《わたし》というミクロコスモスの中にそれとしておさめようとしている。のではないだろうか?
その例示としては思い浮かばないのであるが たとえば真言密教の中からは 例の立川流が現われている。けれどもこれを特に異端視するとか排除するとかしないで それとして全体としての社会の中におさめている。いわばそういった例示が思い浮かぶ。
これは 《抑圧》であろうか? どうでしょう? そのところを得させ それとしての位置をあたえているということではないであろうか?
§ 17 オホモノヌシの神は じつは ヘビである。
神々をめぐる日本人の世界観は たとえばこうである。
○ (モノとコト e = mc^2 ) 〜〜〜〜〜〜〜〜
モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
↓ ↓ ↓
自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ
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まづ ヒトコトヌシ(一言主)のカミとは こうです。カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりで出て来ます。そのとき一言主の神は こう名乗ったという。
《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》
(古事記)
オホモノヌシは 三輪山の神ですが じつは 長物(ながもの)と言われ じつは ヘビです。神は 山全体がそうであるのですし その山をも越えて《かみ》を見ようとしてもいるのですが 仮りの姿は じつは ヘビです。
§ 18 《へび》なるオホモノヌシの神との結婚
ヰキぺによれば:
● (オホモノヌシとの結婚) 〜〜〜〜
イクタマヨリビメ〔なる女性〕の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。
父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が三回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようぶようになったという。
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☆ これは ただのナンパ(夜這い?)であると考えられるとともに 神の聖霊によって懐胎した話としても――つまりあたかもイエスの母マリアの事例と似ているというような話としても――捉えられます。
のちにこのイクタマヨリヒメより生まれたオホタタネコは 世の中に疫病がはやったときにそれをしづめるためにオホモノヌシの神をまつる役目に就きます。
§ 19 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。
《なほびたま》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 17)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 16) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むむしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?