caguirofie

哲学いろいろ

ことばが肉となった

 原罪もヘビも悪魔もまったく別としてですが どうも人間は ややもすると――そ
れこそ無常の雨に打たれ 深い海の底にまで連れ去られて行ってしまったかのように
―― どうしようもない〔例によって対象のない〕不安に落ち入り 来る日も来る日
も深く暗い闇の中に置いてけぼりにされたように感じる時期があるのではないか?

 そしてこの闇の中にいる人間に光を見させるためには どうすればよいか? とい
う主題が考えられた。
 一般的に言えば 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかっ
たかという問題ですが。




 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口か
ら行けば:

 いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間と
なって 人間として(――ということは 人びとに決して その生前には 神である
ことが分かられずに 人間として――)去っていくことだったのだと思われます。

 人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切った
というほどの事態に見られるそのことです。
 あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 死を
死んだということ。などです。

 人間としてでなければ――つまり ローマ兵士らに神ならそこから降りて来いとか
らかわれて 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味で 人
間としてですが 人間としてでなければ―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 
最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。神だから 最後
までその務めを果たし得たが おれたち人間には無理だという話になってしまう。

 しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の
光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる
必要があった。