caguirofie

哲学いろいろ

没価値性

という言い方で むかしは 価値自由のことを言っていた。

ここで価値は 価値観と言いかえたほうがよいかも知れない。
いわゆる客観性を求めるという看板をかかげて 自分の価値観はおさえる。つまり主観は 出さないという態度を 学問のそれとするという見方があったし いまでも《客観性》を大事にするといった風潮がのこっている。


これは 主観・価値観つまり自分の判断を控えるとわざわざ言って 事実認識もしくは論理構造の把握に徹するという行き方である。
自然科学者であってさえ すでに初めに自分の主観のもとに仮説を置いて それを指針として研究をおこなっている。それが 事実認識のあり方になっている。というのにである。


もし主観を交えず 事実認識の一辺倒――また出ちゃった――に落ち入るなら その世界で永久に《認識機械》となって動くということになるまいか。認識機械のモーターを回し続けるというのは ひとにはやれないだろうし やる必要もないだろう。

ただし いくらかの報酬を得ることを含めて仕事としてやるぶんには 出来るかも知れない。特に自分が治療者であり相手は 被治療者であるというその二項関係をかたちづくり その枠組みとして・その枠組みの中でやるぶんには 出来るかも知れない。
さらに特には 治療と言っても 被治療者なる患者は 完治しないということを治療者のほうが思っているばあいには 出来るかも知れない。


何を思ったか そういう永遠の堂々巡りなる人間関係について 精神医学として世間からの認知をも受けさせることに成功した。
だから 世間も そのようなモヤモヤ・ワールドでいいんだと思っているらしい。モヤモヤ・ワールドが このまま続けばそれでよいと諦観しているらしい。

やああなこった。