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哲学いろいろ

縄文土器

《いきほひ》の美は 縄文人の火焔型土器が原点か?
 * 世の中にスサノヲ人間語での発言が登場したことに乾杯を挙げつつ 再度質問します。

 § 0  まづ資料です。

 (α) 火焔型土器
   http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about02.html

 § 1 まえがき――行儀と物分かりとがよいわるいということ――

 《 Stay hungry, stay foolish.》というのは 一時的なブームを起こすにはよいでしょうが――または 一時的なブームを一つひとつ永遠に重ねて行くのによいかも知れませんが―― それでもそれは それぞれの分野で同時代に二人か三人で足りましょうから(または もっと多くの人数を必要とするという場合にも その探究する主題にもよりましょうから) そうは言いませんが
 そうは言いませんが それにしても 近々の情況では 世間にはお行儀がよくしかも物分かりがよいという文章が多く見られるようになりました。
 
 昔は――ほんの一年前くらいまで―― 回答と称して 罵詈雑言から誹謗中傷まで話にならない文章が多かった。いまもそれは途絶えてはいませんが さすがアラシ屋さんにしても 今では敬語を使うようになっています。《哲学カテから出て行け》やら《おまえの ID を剥奪してやる》やらは 日常茶飯事でしたが 最近 様変わりしたように見受けられます。

 行儀がわるく物分かりがよくないのは だめなのか? これが この質問の趣旨のひとつです。


 § 2 あやまちうるスサノヲ人間語(生活語)とあやまたざるアマテラス人格語(科学語ないし役人言葉)

 行儀のわるい文章例を出してみます。スサノヲ人間語につうじると見ている場合です。
 (β) 《次の作品は 果たしてうつくしいか?》 〜〜〜〜〜

   ( a ) 尾形光琳      紅白梅図
   ( b ) 大徳寺龍源院   枯山水(方丈前の石庭)

 ( a )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。
 右側に描かれている紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。
 色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。
 けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは 洗練されたアマテラス人格語の成熟度を表わしましょうか。

 ( b )は 真ん中の島がなぜあるのか? と感じます。苔や草が生えていて まわりの石庭とは別の世界をあらわしているのでしょうか? つまり意図的にそうしていましょうか? その必要がないように思います。石だけでいいように思います。
 正面の奥に木々が植わっています。これも 構図に入れるのなら もう少し何とかならないものか? 活かすなら活かすで もう少し何とかならないか。中途半端に感じます。
 そして 周りを囲む塀ですが けっきょく隣の塔頭か何かの家が見えていますので これもわざと見えるようにしたのか?
 木々は無しで 塀を高くして 小石の地面といくらかの大きい石(もしくは小岩)で織り成す庭だけの世界をつくったら どうか? 
 それにくらべるなら 竜安寺の石庭は ふつうに落ち着いているように感じます。落ち着いている中に ふつうにスサノヲ人間語としての気勢をも感じ得ます。塀の壁の色がよいでしょう。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 § 3 縄文土器を鑑賞するにあたって 美についての作業仮説

 (γ) 《美とは何か?》 〜〜〜〜〜〜

 (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――以前の質疑応答(*)では――捉えました。

  * 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】
    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html
 
 (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性(間主観性)ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。
 孤独とは 孤独関係なりと。

 (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?

  (3−1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき
   わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ
   れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな
   る。
    そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど
   うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず
   隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起
   こさせてくれるものだということかと。

 (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?

 (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。
 
 (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?

 (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。

 (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。

 (9) ひとつの問いは (3−1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? に及ぶ。

 (10) 言いかえるとこの場合 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。〔一つの言語における人間語(日常語)と人格語(科学語)とのあたかも二重構造か〕。

 (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性としては当然のごとく含むのであって その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していて発揮しうると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは法律用語のごとく無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えていてよいはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 § 4 間奏曲

 ちなみに § 3の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) § 2(β)のふたつの作品を鑑賞してみると どうなるか? 

 ひとつの焦点は ( b )の枯山水が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( a )の紅白梅図がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。
 《いきほひ(勢い)》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょうから 果たしてそれをめぐってそれらの作品からどんな感覚を受け取るか?


 § 5 果てさて 縄文土器をわれわれはいかに見るか?
  ――将来への息吹きにつうじるか?――

 とは言っても ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。そしてここでは この土器の世界を取り上げました。

 こういう出で立ちなのですが ひとつには スサノヲ人間語の《いきほひ》は 何も躍動感などの動のかたちにのみあるとは限らないのであって 静のかたちにも・あるいはそうとすれば磨かれ切ったアマテラス人格語にもとづく作品にも見られるはずではないか? という観点を持ち それをも問います。

 来たるべき(と思われる)日本のルネサンスに向けて 美とは何か? どういううつくしきものが求められるのか? ご教授ください。
投稿日時 - 2011-12-03 12:13:12