caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第一章e 神の国について

それは・つまり過去は 単純にはまず いま自分たちに ものごころがついた時のこと。次にこの同じ自分が この世・この地上の必然の王国に生を享けた時のこと。さらに世代世代をさかのぼって遠く祖の時代のことども。逆の順序で言いかえると 自分たちの血筋について そして 肉の意志 あるいは人間の意志――これらをとおして人間は誕生し ものごころがつく――についてのことども。*1

 ところがまず これら三つのこの世の歴史には 神の国はなかったのです。しかも このこの世の経験的な歴史――泣きいさちったことや 非行をおこなったこと――のあと 神の国が視られたのです。したがって これら三つの歴史の行為をとおして 神の国を 過去へとさかのぼって 見ようと欲した。むしろ神によって自分たちが新しく生まれたというその歴史です。これを過去に遡及して問い求める。最初の人たちには このことが いったい どうなっていたのか。
 じつはまず 自分たちの歴史において スサノヲが宗教拒否の意志をつらぬいたこと(泣きいさちり)の中に そして この宗教拒否の意志を自分勝手に肯定(弁明)しようとしなかったこと(そのために敢えて破廉恥なことまでおこなった)の中に この問いを解く鍵が秘められていた。やりたい放題のことをおこなうのは この世の人間の出来事であります。泣きいさちるのは 人間の経験的な歴史の行為である。そこで これらの経験的な歴史の行為をスサノヲにおこなわしめたちからが あったのであって それは スサノヲをこの世から見捨てたちから この世から見捨てることにおいてかれを見捨てなかった力 であるとすでにスサノヲたちは 知っている。

 スサノヲは この力そのものを見たわけではありません。しかし この力がはたらいてというように 追放という死からかれは復活することが出来た。これを 神がスサノヲに王になったと人びとは表現して了解した。しかも この表現の意味表示するとおりに スサノヲに神が王として顕われたというのでもない。それは このように表現することが より一層ふさわしいというほどに スサノヲらはこの力のはたらきを受け取った そしてこれを見出し 知っている。言いかえると 神の国は この地上の国(血筋や人間の意志など)と 分かれているのではなく――ちょうど両者のあいだに 非武装中立地帯(no man's land)を設けて分け隔たっているのではなく―― 互いに混同して存在しているもののようだと。二つの国は その国境を明確に分離し 隔絶させているのではなく 国境線が分からないほどに 互いに入り組んでいるのだと。*2いさちるの《いさ》は 《いさめる》のいさであり 泣いてばかりいると言っても そこに この《いさ》の意志(自己と他者との愛)が含まれていたのであると。愛とは この意味で むしろ中立の かつ絶対的な 関係のことだとも捉えられる。

 この力を 最初の人びとである――と伝えられている――イザナキとイザナミの時代と社会へさかのぼって 問い求めようとしました。呪術の園においても見られる人間の経験的な出来事 つまり肉の意志や人間の意志や そして血筋 これらをたどって かつこの血筋・肉の意志・人間の意志によってではなく 神の力によって新しくふたたび生まれるという神の国を――そのようにスサノヲらはいま認識している これを―― 問い求めた。あった。かれらの祖であるイザナキとイザナミ すなわち最初の人たちである男と女との 愛がそれであると。自分たちは 愛によって生まれた。これが 宗教拒否の意志の源泉。疑いを超えた人間のちからとしての愛。つまり同じことで 泣きいさちる中の いさの意志の源泉。非行をおこなうことの中の 生から死へのではなく むしろ死から生へと動く良心のみなもと。罪を犯さない生からやがて死へのではなく むしろやがての追放という死から復活へとはたらきかけた良心の隠れた愛のちから。だから罪人にはたらき 時間的に生起する王としての神。

 イザナキとイザナミとの 肉の意志および人間の意志による・だから 罪をともなって(罪を免れてはいないかたちで)行為する愛 この愛の中に むしろ生から死へではなく すで(既)なる罪とその罰でありやがてなる死(追放)とから生へふたたび突き動かす 愛のみなもととしての愛のちから。自分たちは そして最初の人たちも その愛のちからによって新しく生まれたのであると。すなわちイザナキとイザナミは スサノヲらの中に スサノヲらがいま かれらを思う(愛する)ことによって 復活したのであると。神の国が この過去に遡って その時間の初めから現在に至るまで ひとつの歴史として つながった。親たちが 蘇えった。今(スサノヲらの当時)から思えば 最初の人たちも この愛によって この愛の中で 生き動き存在していた。今(われわれの現在)から思えば これがエデンの園であると。むしろ乱雑のかたちでそうではないかと。したがって 神は愛である。神は愛であるのではないか。

    *

(つづく→2007-04-21 - caguirofie070421)

*1:血筋・肉の意志・人間の意志によらず 神によって・・・というのは もちろん《ヨハネによる福音書 (アレテイア--釈義と黙想)》 1:13より。

*2:神の国と地上の国とが この地上では 互いに入り組んでいるという議論は R.A.マーカス:《アウグスティヌス神学における歴史と社会》に学びました。