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哲学いろいろ

#109

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第六十二章 聖なる徳なる魂の死は 幻影の十字架とされている

――告白5・9――


《母モニカの意にそむいてローマにおもむ》(告白5・8)いたわれらがアウグスティヌスは そこで 《熱病にかかって危険にひんする》(告白5・9)。

さて私は熱がひどくなり いまにも死にそうでした。もしそのときこの世から去ったならば 私はどこへ行ったことでしょうか。あなたの真実の秩序のもとに 自分のおこないにふさわしい地獄の火と責め苦のもとに行くよりほかにはなかったでしょう。
母はそのことを知りませんでした。遠くはなれた所で私のために祈っていました。あなたはしかし 母のいたところ いづこにもその近くにましまして祈りを聞きたまい 私のいたところ いづこにもその近くにましましてあわれみたまい 冒涜的な心のほうはまだ不健康なままに とりあえず身体のほうの健康を回復させてくださいました。
(告白5・9・16)

そしてどうでしょう。私はそこに身体の病という笞をもって迎えられ あなたにたいし 自分にたいし 他人にたいして犯したすべての悪を身に負うて あやうくも地獄へ行くところでした。(ヨブ記7:9)。それらの悪は われわれすべてがアダムにおいて死ぬ原罪のくびきの上に(――前史・母斑の世界に寄留するなら――) ずっしりと重く増し加えられていたのです。(コリント前書15:22)。
じっさい まだあなたは それらの悪のいづれをも キリスト(よのなか)においてお許しになってはいなかった。またキリスト(よのなか)は 私が自分の罪によってあなたとのあいだにおこした敵対関係(ローマ書5:10)を まだその十字架(《私に背むいて公に向(ゆ)く》)において解かれてはいなかった。
当時 私がキリスト(よのなか)について信じていた《幻影の十字架》において どうしてその敵対関係を解くことができたでしょうか。ですから キリストの肉――それは わたしたちである――の死が私に虚偽だと思われただけ 私の魂の死は確実でした。

  • 聖徳太子の死とかれの一家滅亡は確実だと思っているが よのなかの・つまりやしろの死はまだ虚偽だと思われた。

キリストの肉の死が真実であるだけ それを信じない私の魂の生は虚偽だったのです。
(告白5・9・16)

まだ わたしは 《ねたむ神》において 《聖なる徳なる魂の死》が 人びとに《たたり》をなすというかの有名な《怨霊史観》を信じていたのです。

愛する人たち 自分で復讐(たたり)せず 神の怒りにまかせなさい。

復讐はわたしがすることであり わたしが報復する。

と主は言われる。
申命記32:35)

と聖書に書いてあるのです。
(ローマ書12:19)

この《復讐するわたし》を わたしのことだと信じていたのです。むろん わたしは《私を背むいて公へ向》こうと努力していました。人一倍そうであったかも知れません。けれども 精神においてそう努力すればするほど 《〈復讐するわたし〉は わたしのことだ》というもう一つの精神があたまをもたげてくるのでした。
聖なる徳なるたましいの死が 確実であったゆえ――これが 罠でした―― アマテラス語客観の精神真実が わたしの神であると あなたを措いて 思っていました。
あなたのあわれみと佑助により あのアマテラス者の予備軍たちが仕掛けた罠が わたしにおいて見分けられ それが砕かれ棄てられ ついにわたしは 《悪に負けることなく むしろ 善をもって悪に勝ちなさい》(ローマ書12:21)と あなたが かのパウロをとおして告げられる言葉が 《よのなか》のほんとうのちからであると信じ 虚偽を棄てることができるようになりました。
あなたの第二のペルソナである御子の死が わたしに おとぎ話の中の虚偽だと思われただけ わたしの魂の死は確実でした。その当時のわたしのみじめさを じっくりと眺め嘆くことができるようになりました。

じっさい私は そのように(熱病の)大きな危険のさなかにありながら あなたの洗礼(みそぎ。なぜなら かのイザナキのミコトが アマテラスオホミカミとツクヨミのミコトとスサノヲのミコトを生んだのは 先に死んだイザナミのミコトのいる黄泉(よみ)のくにを 辛くも脱出して ミソギをおこなったときにほかならなかったですから)を熱望していなかったのです。
ですから私は すでに回想し告白したように 信心が深い母から洗礼を乞い求めた少年時代(§15)のほうが そのときよりも まさっていました。ところが私は 成長してかえって醜くなり 狂気にもあなたの薬の処方を嘲笑していたのです。しかしあなたは このような状態のまま私が二重の死をとげることを お許しにならなかった。
もし母〔のくに〕の心がそのような打撃によって傷つけられたならば けっしていやされることができなかったことでしょう。じっさい 私を霊において産むために 肉において産んだときよりもどんなに大きな気づかいをしていたか 私はとうてい十分にいいあらわすことができません。
ですから もし私がそのような状態で〔たとえば 英霊となって〕死に それが母の愛にみちたはらわた(よのなか)を刺し貫いたとしたら どうしていやされることができたか 私は知りません。そのように多く たえずくりかえされた祈りはどこにいったのでしょうか。ほかでもない あなたにむかっていったのです。
しかし あわれみの神であるあなたが きよくまじめな寡婦(やもめ)の打ち砕かれへりくだった心を軽んじたまうはづはありませんでした。
かのじょはしばしば施し あなたの聖徒たちに従って奉仕し 一日も祭壇に供物を怠らず日に二度 朝と晩 かかすことなく教会(やしろ)をおとづれましたが それは むだ話や老婆のおしゃべりのためではなくて 説教(沈黙)の中であなたのことばを聞き またかのじょの祈りの中であなたがかのじょの言葉を聞きたまうためでした。かのじょが涙ながらにあなたに乞いもとめていたものは 黄金でも銀でもなく 何か変転し飛びさってゆく善でもなく ひたすら息子の救済だけでした。このような母の涙をあなたが軽んじて 援助をこばむことがありえたでしょうか。母がこのような人間であったことも あなたの賜物によるのですのに。
主よ・・・。
(告白5・9・16−17)

けれども 《言葉 多ければ 罪を免れない》(箴言10:19)のですから わたしは ただ インタスサノヲイストとしての聖徒たちが語ったことばや書物に このわたしの小説のたいせつな心の部分は すべてゆづらねばなりません。ただ 《み言葉を宣べ伝えよ。時を得ても得なくても》(テモテ後書4:2)と書いてありますから この実践に一歩なりともわたしも参加したいと願うのみです。
ところが わたしは

われらの主にして救い主イエス・キリストの単一性(生命)が私たちの二重性(昼と夜)にいかに相応し またいかなる点で私たちの救い(アマアガリ)にそれが対応するのか 解明しなければならない――と言ってアウグスティヌスが次のように語ることを見逃してはならないのですが つまり――
キリスト者(インタスサノヲイスト)は誰も疑わないのであるが 私たちはたしかに 魂と身体において死んでいるのだ。
つまり 魂においてとは 罪(くにやしろ資本のために 幻影の十字架をつくるべく 聖なる徳なる魂とその家系をほろぼした)のためであり 身体においてとは罪の罰のため したがって身体において というのも 結局は罪のためである。
さて 私たちのこの両者 すなわち魂と身体(A者性とS者性)にとって より悪しきものへ変えられたものが より善きものへ新しくされるためには 医薬と回復が必要であった。ところが 魂の死とは不敬虔のことである。魂を身体から分離させる壊敗性のことである。魂は神(よのなか)を棄てることによって死ぬように 身体も魂を捨てることによって死ぬ。そこで 魂は愚かなものとなり 身体は生命を失う。
しかし 魂は悔悛によって蘇生し そしてまだ可死的な身体において(この世にあって) 生命の更新が 不敬虔な者を義としたまうお方を信ずる信仰(ローマ書4:5)によって始められる。それは内なる人が いよいよ新しくされるとき(コリント後書4:16) 日毎に善き行為によって増し加わり 強められるのである。
だが 身体は外なる人として この生が長く続けばつづくほど いよいよ年齢や病気やまた種々の苦悩によって誰もが死と称する終局に至るまでは壊敗されるのである。しかしその復活は終末 つまり 私たちの義認が言い表わし難い仕方で完成されるときまで延期される。
かの時には 私たちは御子に似るものとなるであろうからである(ヨハネ第一書3:2)。しかし今は 壊敗する身体が魂を重くしている(知恵の書9:15)限り 人間の地上の生命は試練そのものに他ならず(ヨブ記7:1) 私たちを天使に等しくするであろう栄光に比較しては 生けるものはすべてかれの御前に義とされないであろう(詩編142:2)。
(三位一体論4・3・5)

と言って解明するインタスサノヲイスムの原理に気づかないわけではないのであるが そのためのミソギ ミソギ これは くにやしろ資本の共同観念において すなわち 昔ひとりの聖なる徳なる魂を死に追いやりつくり上げた幻影の十字架のもとに――英霊たちがこのために死を引き受けました―― つづいておこなわれることに 気づかないわけにはまいりません。
このような物言いは あなたがなさる復讐をみづからの心とするあなたへの不従順から起こるものなのでしょうか。このような言挙げは 同じくあなたとの和解をこばむそれから起こるものなのでしょうか。不敬虔なる死の魂が それを言わせるのでしょうか。
母斑の世界 ははのくにに寄留しているのですから ヤシロロジにおける《わたくし》の発言は きびしくつつしむべきなのでしょうか。

主よ 来てください。
(コリント前書16:22)

わたしたちは もっと身近で確実なことを話題とし これをヤシロロジとしての発言に代えるべきなのでしょうか。
けれども この身近なことがらにかかわる問題の認識と発言と処理は すべて母斑の世界の公式にのっとって あの幻影の十字架に向かって アマガケリゆくことをわたしたちは知っています。これは アマテラシテ交換価値つまり幻影の十字架を 再生産していることにつながらないでしょうか。つまり 魂と身体 A者とS者との 二重の死をうたいつづけることにならないでしょうか。
けれども もちろんわたしたちも 抽象的な議論をしているという気づかいはまったく要りません。ヤスク二 防衛・軍事力・平和・友好 教科書・教育等々の問題を論じているつもりであり 問題は それらが A圏・A者からする母斑公式にのっとるということにあり 解決はそうではなく インタスサノヲイスムの《やすくに》なるやしろ(たとえば 自由都市連邦)・そのスサノヲ市民どうしの相互協力としての防衛 そして教育 自治 また広く生産の方式をとるということ ここにあるというのは むしろ英霊たちの願いであり そうしないなら祖先たちにわたしたちは申し訳が立たないとすらいうほどのことになりはしないでしょうか。わたしはキリストの信仰を押し付けたでしょうか。
(つづく→2007-04-12 - caguirofie070412)