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哲学いろいろ

#56

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Bateau en Bois

En 1986 une barque en bois datant du Ier siècle fut découvert près de Nof Ginnosaur sur le rivage nord-est du lac. Des études ont permis de déterminer le type de bois utilisé (principalement cèdre et chêne), le style de construction (joints mortaise-tenon), la date (se basant sur les méthodes de construction, poterie et carbone 14) et la taille (8m sur 2,5m - assez pour 15 hommes). Une reconstruction de ce à quoi le bateau aurait pu ressembler peut être visité à En Gev.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第三十一章b 内田芳明《序論 マックス・ヴェーバー 社会科学の形成と人間史》批判

――マニケイスムが 神を説く――


わたしたちは すでに インタスサノヲイスム(井戸端会議)は 社会科学ヤシロロジの視点を 同時に含まねばならないと言った。また ヤシロロジ視点は あの内村鑑三の《不敬事件》のように 具体的な情況と場における具体的な行為としてのインタスサノヲイスムに〔のみ〕あらわれるということを《説い》た。運命やデーモンを別としても このことが 《日ごとの要求》の中にある。
そして実は それだけなのである。《認識課題(たとえば スーパーアマテラシスムなるエートスまたは その対抗馬なるそれ の権威)の悲劇性》も 喜劇性も その付け足しにしか過ぎない。
そこで 《学問》の――《傲慢さを拒否し》――その権威づけに走らなければならないところの〔なぜなら 《認識課題》の中に 現行のエートスの王国とは別の精神の徳なるエートスの王国を立てこれを築こうとするからだが そうせねばならない〕スーパースサノヲイストの人びとは これに 《運命やデーモン》の概念を おおいかぶせるようにして 付け足す。ゲーテの八重垣S圏の知恵の一つなる(だから インタスサノヲイスムの)《日ごとの要求》に もう一度 垣根をめぐらせて これを アマテラス語学問の中に 理論づける。
だれもが 《人間的にも職業的にも》《日ごとの要求に従》っているのだ。そこへ そのエートスなる概念装置によって そのエートスの内的な《固有の法則性》をとらえて 理論づける。ここでは 《デーモン(守護神)にしたがう》ことと 《運命》概念が それである。

  • だれもが 《人間的にも職業的にも》《日ごとの要求に従》っているのだ。それが 日常生活の第一次的な姿である。ただ そのように認識するのは ほんとうは 悲惨な情況にあって なおも悲惨にならないために 持つ歯止めのようなものだ。したがって 前史だとも認識する。後史に入っても 日常生活を 《日ごとの要求に従う》かたちで 送ることになるのは 実際である。しかも たとえば もはやすでに 言うとすれば《自己に固有の法則性》などという性格であるとかエートスであるとか あるいはまたそこに潜むと見られるような《デーモン》の力であるとかから わたしたちは 解放されている。

こうして あの《認識欲動》の発現としての《学》的運動をおこなっていた頃の自分が ともあれウェーバーにおいても後史に入ってのように いまこの視点に立って いわば自己の《前史》として 発見されたことになる。(《職業としての学問》は ウェーバー晩年の講演であったのだが――§21)。一般論としては わたしたちは この《後史》に立って 前史に臨もう いま 後ろ向きに進もうというのが 方程式であった。
けれども このウェーバーの後史が はたして《後史》であるかどうか 疑問としなければならないであろう。
《自分の人生をあやつっているデーモンを見いだし そしてそれに従うならば 極めて容易に 〈日ごとの要求〉に従う》ことができるであろうか。できないというのではなく これは そのまま前史そのものにほかならないと言わなければならないのではなかろうか。これが ウェーバーの結論であったのだろうか。
けれども内田芳明は ここで これを結論としている。次のような論理(暗示)で。
話は [旧約]聖書からだが まづあの《族長ヤコブが 〈ヤボクの渡し〉でこの〈デモーニッシュな力〉と格闘したとき ヤコブがその勝利とデーモンからの祝福とを獲得することができたのは 〈もものつがいをはずされる〉という代償をともなってのことであった(創世記32:22−30)》(内田論稿 §8)。これと同じように ウェーバーのあの数年間にわたる《病気転落 Sturz 》が 《天才〔の悲劇〕性》つまりわたしたちの言葉で アマアガリ を証明しているのだというのが それである。これが ウェーバーの回心であったと言う。
これは しかし 鬼のようになって言うのだが わたしたちから見れば 偽りのアマアガリと言わずとも ただやっと《前史=必然の王国》にたどりついたそのアマアガリへの準備 言いかえると 前史における前史のための回心 これではなかったであろうか。
なぜこんな回り道が生じなければならなかったのか。《超一物一価》に対する別種の《超一物一価》を立てて これを信奉していたからではないのか。
ヤコブイスラエルとも呼ばれる)が ヤボクの渡しを わたろうとしたとき それはなるほど 自分のデーモン(と言うならデーモン)に従い そのもの(人間として登場)に導かれてのことである。けれども 妻や子供たちを渡らせ 

ヤコブはひとりあとに残ったが ひとりの人(これが 《デモーニッシュな力》だと内田は言うのである)が 夜明けまでかれと組み打ちした。
(創世記32:24)

のである。そうしてヤコブがついに打ち負かしたこの《デモーニッシュな力》が わたしたちの従うべき《デーモン》であると言うのであるが これは どういうことか。
なるほど したがって内田芳明は言う。

内に住むデーモンは謎につつまれた二重の作用をいとなむ。
創造的な偉大な非凡なひらめき(霊感)を助勢し その業績を達成させるこの《底知れぬもの Wesen 》は 同時に破壊したり失敗させたり不幸にしたりする生の力でもある。
(内田論稿 §8)

こうなると 一方で 《ヤボクの渡しをわたるようにみちびいたデーモン いや 神なのだが》と 他方で《渡しのこちら側で 夜明けまでそれと組み打ちしたデーモン》とが 同じ一つの《底知れぬもの》であり《生の力》であることになる。
なるほど 

あなた(ヤコブ)は 神と人とに 力を争って勝った。
(創世記32:28)

また

ヤコブは・・・言った。

わたしは顔と顔をあわせて神を見たが なお生きている。
(創世記32:30)

と書いてある。よろしい。ヤコブが組み打ちした相手が 《デーモン》であり 《神》であったとしましょう。けれども この神がどうして 《同時に破壊したり失敗させたり不幸にしたりする生の力でもある》ことになるのであろうか。

ヴェーバーは 自分のうちに住んで自分の運命の道を内側から導く《デーモン》を信じていた。・・・ヴェーバーは 自分の《〔学問の〕業績の達成》を 《運命》のおかげとして つまりデーモンが妨害せずに むしろ反対に刺激し助けてくれたおかげとして 感謝している。
このデーモンはしかし人生においてその創造活動や願望を妨害し転落(挫折)せしめる力でもあるがゆえに恐ろしい力なのである。
(内田論稿 §8)

であろうか。ウェーバーが 病気になったのは デーモンが妨害したからではないのか。ヤコブが組み打ちで勝ったのは デーモンが妨害しなかった・し得なかったからではないのか。一度 妨害したデーモンが そのウェーバーに対して 《むしろ反対に刺激し助けてくれた》結果 《達成》したかれの学問の《業績》とは ぼう大な書物にあらわされた研究成果・理論内容ではなく ただ《デーモンに従え》という最終的な命題ではなかったか。むしろゲーテの《日ごとの要求》の上塗りなのではないか。
ヤコブは確かに《デモーニッシュな力》と格闘したが その《業績の達成》は このデーモンに勝ったそのことでも あるいはヤボクの渡しを渡り得たそのことでもなく したがって《デーモンには従え》という命題ではなく 《夜明けまで組み打ちの相手となり たしかにヤボクの川を渡らしめたその力と言葉》を 歴史的に 証ししたことではないのか。
ウェーバーに デーモンを配してかれをみちびいたのは その存在である力ではないのか。
インタスサノヲイストの共同主観の歴史的なありかをおしえ その霊的な共同主観の原理すなわち神の国が またその歴史的な進展がまったく(=そのまま)問題なのではなかったか。このとき 内的なエートスの《固有の法則性》などは 存在しないのではないだろうか。
《日ごとの要求にしたがう》のは ここにおいてであり デーモンはただ その過程において 前史の土壌としてのごとくはたらいている必然の王国の諸要因でしかないのではないか。《〈もものつがいをはずされる〉という痛い代償》は もはや償われたのではないのか。
《後史》をみなければならない。あるいはこの《後史》の光りをかいま見たにもかかわらず それが信じられずに いまだになおこの光りを《前史》の世界における大きな繭のごとく捉え この空気のような天蓋のもとに 人びとよ 運命に従いつつ 生きよとのたまわっているように思われる。
(つづく→2007-02-18 - caguirofie070218)