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哲学いろいろ

#55

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Hippos et Ports( Mer de Galilée )

Hippos (Susita) fut une ville importante de la Décapole située en haut d'une colline circulaire donnant sur le rivage. Le port moderne du Kibboutz En Gev est visible en dessous de celle-ci. Au moins 16 ports étaient en existence autour du lac au Ier siècle. Chaque commune autour du lac avait son propre port, même si celui-ci pouvait être très petit. Le plus grand appartenait à la ville de Gadara, ayant un brise lames de 200 mètres de long.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第三十一章a 内田芳明《序論 マックス・ヴェーバー 社会科学の形成と人間史》批判

――マニケイスムが 神を説く――

こういうことを知らなかった私は あなたの聖なるしもべや預言者たちを嘲笑していました。しかもその私は かれらを嘲笑しながら じつはあなたによって嘲笑されることをしていたのです。
私は知らぬまに次第にいざなわれて もぎとられるとき いちじくもその親木も泣いて乳の涙を流すというようなばかげた話を 信ずるようになっていたのですから。

  • マニ教によると すべての植物のうちには 神の霊が小片となってやどっている。木の実が親木からもがれるとき出る汁は その涙であるという。》(山田晶

(告白3・10・18)

内田芳明は 《序論 マックス・ヴェーバー》の中で わたしたちが前章で見たように 共同主観の原点(S圏やしろの資本=人間関係)を 妻マリアンネらにうたがわれ うわさされ 苦しめられてのように ウェーバーが 病気に転落したことを 《天才の悲劇性》であると見た。またこれを 《リズムの崩壊から神経症的病状に墜落する姿》だが 墜落する以前でも以後でも 《異常な仕事意志となって現象する姿》だと捉えている。

一体その病気は ヴェーバーがその学問史と人間史の軌道からある暗い病的迷宮に入り込んだ一つの不毛の時期 というようなものではなく むしろヴェーバーの全人格のもっとも本質的・生命的なものの一つの現象であったのではないか。言いかえれば この病気は ヴェーバーという一個の〔天才的な〕一人格がその異常な認識欲動の奔放で熱狂的な推進とそれに基づく破綻とから 自己本然の生の心的リズムに復帰しようとした運動の表現・・・であったのではなかろうか。
(内田芳明:《序論 マックス・ヴェーバー》 §1)

わたしたちは 一見 機械的な図式と見えようとも この種の神話に対しては 上のマニケイスムの教義のように 《いちじくの実とその親木》の或る美意識の物語にしかすぎないと言うであろう。
わたしたちは その《認識欲動》・学問的な意欲 またそれによる病気回復を 否定しようとは思わない。

  • またこの場合 ありうべきわたしたちの側の主張の神話化を先に嫌っておかねばならぬこととして ちょうどA者予備軍のアマガケリ図式に陥ったから 病気にかかったなどという因果関係の推定に対する戒めである。わたしたちが言うのは やしろの資本連関の中で A者予備軍性は 生起し得ないとは言えない そしてそれが 現実の人間においてたどられる軌跡にかんしては 因果法則など何もないということだ。わたしたちが ここで目指していることは A者予備軍とて 少なくとも現代のそれは スーパースサノヲイスムとして S者の思想を内に取り入れているゆえ これとの異同をはっきりさせておかねばならない このことである。

けれども これを  《天才》の物語に編み直し――《認識欲動》の強大さとその一つの結果としてのともあれ学問が 天才的であったかどうかが 問題なのではない―― 学問的良心の神話につれ去ってゆくやり口には 警戒しなければならないであろう。《いちじくの実が親木からもがれるとき出る汁は その涙である》と ここで内田芳明の論理は語っていないであろうか。これによってわたしたちは マックスなるその人を 非難することになるであろうか。かれの学問的業績を葬り去ることに。方法をわたしたちは 真っ向から 批判している。そのようなスーパースサノヲイスムは やしろ資本の形成にとって まったくの不毛で あの社会的真空地帯にあって むなしい幻影だと言ったことになる。
それでは もはや 学問をやる人びとは 出て来ないではないかと批判するのが かれらの誘惑・告訴・責苦なのである。わたしたちも 教訓めいて 言おう。この苦しみの壁を乗り越えてこそ 学問が新しく生起してくるのだと。《デーモン〔に突き動かされて〕》とは まやかしである。そのような学者は 日常人を嘲笑しつつ――あるいは 《学問の傲慢さを拒否する》と口で言いつつ―― 学問に生きることによって 日常人から つまり《あなた》から つまりS圏やしろから 嘲笑されるのだと。
むろんわたしたちは この知の私有財産制というべき二元論的エートスを 超えていなければならない。しかし 〔新たな別種の〕スーパースサノヲイスムによってではなく はじめのインタスサノヲイスムによってである。だから わたしたちは かれらの理論を論駁しようとするのではなく ただ嘲笑ってあげればよい。また この嘲ってあげられることの推進力(信仰) これを 理性的に知解して すすむ。いまおこなっているのが それだ。なぜなら 異常な認識欲動とそのぼう大な知識の再生産 すなわち学問はこれを やりたい人に勝手にやらせておけばよいという或る種の譲歩と《超一物一価》の無関心の時代は ここに 過ぎ去ったとわたしたちは 宣言するからである。
わたしたちは 関与不可能者が 関与可能なやしろの場に 復帰することが実現するまでに 強制して みちびくことはできない。関与不可能が 関係の絶対性の中で とるそのあり方については 認識して警戒しなければならない。けれども アウグスティヌスと母モニカとの間に 共同主観の破綻が 解消された歴史を わたしたちはすでに知っている。これは 経験科学の真に考究すべき課題であるにほかならない。マルクスのように 自己を見失わずにすすむほかあるまい。また これを 方法の滞留を嫌わずに すすめなければならない。


ウェーバーの《ヤシロロジの形成と共同主観史》と捉えるべき内容の中に  《天才の悲劇性》を見たのは 内田芳明である。《いちじくとその親木》の神話を 次のように 再生産する。

《天才の悲劇性》は 知覚された認識課題の悲劇性となっても現象する。

  • すなわち イエス・キリストつまり やしろの人間の歴史を 悲劇において捉えようというのである。悲劇が 前史であったことは 言うまでもない。

マリアンネが《〔ウェーバーの〕伝記》の扉に引用したリルケの詩句の中にもあるように 《一つの時代全体の価値を統括してみようとする》ようなある種の認識課題は

  • むろん マルクスやスミスらが これを持った。

《時代のすべての重荷を自分の胸の奥底へ投げこむ》ような

  • 果たして そうか。

まったく天才にのみ自覚されうるような新鮮な課題であると共に 天才にしてもやっと持ちこたえうるような重圧の課題なのである。これは天才固有の認識課題そのもの 仕事の内容そのものにつながる悲劇性である。自分のみが特別に かくも遠くまで展望を開いて見ることを許され

  • わたしたちは このような《展望》は 不必要だと言っている。

しかもそれに形象を付与することができるという確信と使命観( sic )との内的高揚があるとき その熱狂は 同時に時代的・社会的・文化的・伝統的な規制を狭苦しき牢獄と感ぜしめ 手かせ足かせと意識させ 精神と心のバランスを崩壊させるほどにまでなる。

  • あのスーパーアマテラシスムなる共同幻想を 自己の敵対物とし みづから《狭苦しき牢獄》なるかごめとなり しかもアマガケるスーパースサノヲイスムのエートスの国に 入ってゆくからである。上のような因果関係を堂々と披露されるなら そうではなく かごめとなる思想の問題だとわれわれは言う。第一次的な物語としての《ドン・キホーテ》は 《つうと与ひょう》のそれがそうであったように まだ確実な世界をわたしたちに見開かせてくれる。けれども このスーパースサノヲイストのドン・キホーテは 必要でないとわたしたちは言った。第二次的なドン・キホーテは 現行支配的な共同観念スーパーアマテラシスムとひそかに談合するからである。

そしてさらに 天才の悲劇性

  • ほんとうは 非劇性

を語るならば 我々は第三の観点――運命概念――にまで到達する。
(内田芳明 前掲稿 §7)

これについては 引用文の中の註解に託しつつ わたしたちは この最後に予表された《運命(とデーモン)》の考え方を見てみなければならない。
なぜなら  《知覚された認識課題の悲劇性》を ウェーバー自身およびこれを跡づける内田自身が この運命概念によって むしろ ほんとうはわたしたちと同じように《前史》なのだと 知っており うわさしたいと言うかのように説いているからである。けれども そのやり口を点検してあげなければいけない。


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最終第8章〈ウェーバーにおける《運命》と《デーモン》の思想〉と題し 内田は ウェーバーのいわば後史について 語っている。
《ユーモア》によって この《悲劇的なる運命》に立ち向かうといった点が ウェーバーに見られると述べられた点を別にすれば ここでは わたしたちもすでに引用して触れたウェーバーの《職業としての学問》の最終の箇所が 引き合いに出されている。まづ 重複をいとわないなら 次のように論じているところを確認したい。

ユダヤ民族の恐るべき運命》について言及した後にヴェーバーはこう結んでいる。

我々は 〔ユダヤ人がただ待ち焦がれつづけるという〕そうした態度をあらためて 自分の仕事につき そして――人間的にも職業的にも――《日ごとの要求》に従おう。しかしこのことは もしも人が自分の人生をあやつっているデーモン( Dämon )を見いだし そしてそれに従うならば 極めて容易なことなのである。
ウェーバー:職業としての学問)

ヴェーバーにおける《デーモン》概念が深くゲーテのそれと結びついているらしいことは この文章中の《日ごとの要求 die Forderung des Tages 》というゲーテの言葉が引用されていることから暗示されるだけでなく なによりもゲーテがこの《デーモン》についてもっとも好んで深く考え この概念をしばしば使ったという点 そしてその内容がヴェーバーの運命概念全体にぴったり一致する という点から実らしく思われる。
(内田芳明 前掲稿 §8)

わたしたちは すでに インタスサノヲイスム(井戸端会議)は 社会科学ヤシロロジの視点を 同時に含まねばならないと言った。また ヤシロロジ視点は あの内村鑑三の《不敬事件》のように 具体的な情況と場における具体的な行為としてのインタスサノヲイスムに〔のみ〕あらわれるということを《説い》た。運命やデーモンを別としても このことが 《日ごとの要求》の中にある。
(つづく→2007-02-17 - caguirofie070217)