caguirofie

哲学いろいろ

#43

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Plaine de Bethsaïda

Le rivage nord oriental de la mer de Galilée est une plaine fertile où la multiplication des pains pour les 5000 probablement eut lieu.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十四章b インタスサノヲイストは井戸端会議を普遍化・理論化して唯物史観する

――アウグスティヌス 《強くなる》――


たとえば単純に

商品生産が社会的生産の一般的形態となるに至れば

  • 自給自足するのではなく また必要物の一部のみ他と交換して手に入れるのでもなく 必要なものすべてが 他人の手によって生産され これが交換され消費されるというS者市民の生活共同が やしろ全体として有機的に構造的に 日常事となるに至れば

無数の交換 したがって 無数の価値等式において 社会的物質代謝(生産と消費)が したがってまた労働する人びとの社会的関連(やしろ資本形成)が 実現される。
交換における諸商品の共同行為 これが 個人の私的な個人的な具体的な労働時間(S者生産力の発現)を 価値形成する一般的な社会的に必要な抽象的な労働時間(抽象普遍のA者概念形態)に 転化する。諸商品は 全面的に交換において相互に自分を計り合いながら 同時にますます頻繁に一つの商品において自分を計る〔かのごとくその主体である《わたし》が動かされる〕。
この一つ一つの商品が貨幣となるためには(――アマテラス語象徴価値の概念形態となるためには――) ただ慣習的に〔物々交換からの発展として〕価値尺度として確定されさえすればよい。
(R.ヒルファーディング:金融資本 1・1.1910――括弧内は引用者。)

これは 理論である。(ただし ここでは この本の歴史的な評価をなそうというのではない)。信仰(共同主観)が愛をとおして〔資本形成として〕はたらくために その実践の一環として このような理論が形成され表現し合われるということ。そうして このような当たり前の自己認識としての方法の滞留が もっと為されてもよいと思われること。むろん 滞留のための滞留をおこなうのではない。A者予備軍のわなの力につけ入らせないためには ということだ。
けれども この一つの理論を なすべき批判は為して 発展させて行こうとすることと 方法の形成(主体の形成・S圏やしろの共同なるアマアガリした《資本家》となること)とは 微妙に異なる。もしあえて 次のような表現をとるならば この理論闘争に血道をあげて A者予備軍らの理論に対抗しようというのであれば それは この場合には かれらの《職業としての学問》なる視点のとりもちに ひっかかっていないとも限らない。

《職業 Beruf 》が それじたい 共同主観形成の行為であり それは 理論たる地図作成にあるのではなく 愛としてのやしろ資本形成の中にある。
《職業としての学問》は なるほど 一つに理論作業にもっぱら従事することである。けれども 理論が勝利するのでも勝利にみちびくのでもなく 愛の歴史的な勝利が(つまり わたしの一生涯におけるそれを 基体的に 含むその勝利が) 受け止められたとき 理論するのである。

このことは あたりまえで そうおこなわれていることであるが 愛の勝利は滞留するのであるから 理論も この前提に立って 表現される要がある。
この点では さすがにマルクスの死後ということもあって 上のヒルファーディングは 明示的にそうは言っていないものの 方法の滞留をしめしている。つまり 理論を提示しつつ 主体を明らかにしている。この文章そのものの世界(つまり理論的内容)から 一歩引いたところに 自分がいる。これは マルクスのやり方と同じである。わかりやすく言えば 理論は どうでもよいのだ。また そう言うほどに 真実を言い当てていなければならない。
おそらく 理論的真実のほうではなく この愛の主体は どんな理論をもってしても 否定されないであろう。欺かれないであろう。理論的真実が 批判されるのだ。けれども だから A者予備軍は 甘えてくるのだ。《利害関係――生活の経済的側面(またその理論的真実)――》だけではなく 《デーモンあるいはエートス》といった主体の・人間の・行動の内的な法則性が 問われるべきだと。
かれらは 著者ヒルファーディグの位置から さらに一歩引いたところに あるいはひょっとするとアマガケリした空中の地点に 自己を位置させて そう理論するのだ。これは ただどうでもよいのではなく 井戸端会議のつまらない上塗りである。
愛の主体は 欺かれないとき――理論的内容が批判されても 主体がここにいるということは 否定され得ず 欺かれ得ないとき―― この主体の愛を 理論化しようとし 学問の一方法とする。つまり愛の主体の行為形式の理論を 主体の愛とした。
インタスサノヲイストは 欺かれない自然本性としての自己の存在を表現すべく 井戸端会議する。理論家は これをアマテラス客観語を用いて 語る。ところが この主体の愛を もう一度 滞留させてのように アマテラス語理論化する。――わたしたちには 第一次の井戸端会議の滞留とその普遍語による理論が必要なのであり この滞留の行為形式を エートスとして捉えてそう言ってもよいが そのように捉えられ描かれてしまうエートスの世界に 還元されるわけではあるまい。エートスの世界へ連れ去られるわけではあるまい。これが あのむなしい幻影しんきろうの蔽いである。

ある宗教の《経済倫理 Wirtschaftsethik 》という名のもとに意味されているもの(――つまり エートス――)が何であるか・・・ここで考察するのは・・・宗教の心理的・実際的な諸関連のうちに根底をもつ行為への実践的起動力 praktischer Antrieb zum Handeln である。・・・
マックス・ウェーバー:《〈世界宗教の経済倫理〉序説――比較宗教社会学試論――》1920 林武訳)

これは そしてこのような理論的前提のもとに打ち出されてくる学は 井戸端会議の上品でしかもつまらない上塗りなのである。井戸端会議が 素朴な行為(共同主観)にしろインタスサノヲイスムであるなら その《上塗り》とは 規定としては スーパースサノヲイスムだということになる。同じくこのことによって この《スーパー》の名のもとに意味されているものが何であるかは 一つに必ずしも S圏の上部構造としてのスーパーヤシロすなわちA圏の視点に立ったことをではなく――なぜなら かれは このような世俗的な出世間形態を超えている(スーパー)―― したがって 《わたし》つまりマックスならマックスという一個の自己が スサノヲイスムするということではなく 実にすでに 《絶対に存在しない無限に大きなあのもの》の位置にこの著者が立っていることなのだ。これを 表わしている。
ヒルファーディングは 井戸端会議の普遍化(時代的な普遍化)を――そのとき理論としては 抽象化をまぬがれぬが――行なっている。すなわち 視点のアマアガリなのだ。しかるに すでにアマガケリした視点に いともた易く立って この井戸端会議でのおしゃべりを 言葉によってウェーバーは 映写する。あのすでに勝手に去っていったつうが 天の上から おまえたちはそのように罪深き者なのだよと語りかけている。これは 《むなしい幻影》である。
S圏の人びとの八重垣に ありもしない第九番目の垣根をつくり上げて 蔽いかぶせるようなものである。ヒルファーディングの理論は この八重垣じたいにその内側からかれなりに一層の雲の立つのを見出しつつ これを表明する。これによって 外のスーパーヤシロ=九重A圏への譲歩を忍耐しつつ やしろS圏の復活を待望している。わたしたちは このかたちのない希望によってすくわれている(ローマ書8:24)。この希望この信仰この愛を――むしろありもしない地点から もち上げつつ――阻むものが S圏八雲の上の・スーパーヤシロのさらに上なるアマガケリする人びと。空中の権能(悪魔である)とかれに仕える悪鬼たち(A者予備軍)。(これらは 表現の問題である)。
かれらが繰り出す 善と悪との 精神と身体との 昼と夜との かつ価値自由に価値解釈的な――なぜなら 悪魔がそれへと誘ったりんごの木は 善と悪とを知り人間が神のようになるであろうと表現された木であった―― 二元論の高貴なる理論。
(つづく→2007-02-05 - caguirofie070205)