caguirofie

哲学いろいろ

#23

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Un vitrail de l'église Notre-Dame à Épernay
Le saint évêque tient un cœur enflammé.

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十三章b 余論ふうに(アマテラス予備軍が解放される)

――アウグスティヌス 《神の国について》《三位一体について》語る――


《これら二つの国――すなわち地上の国と天の国と――は この過ぎ行く地にあっては言わば絡み合い 相互に混じりあっている》(神の国について11・1)。
また われわれは 長寿を享受してもよいわけだが 必ずしも初めに願い欲してというのではなく 同時に この世にあっては ただちに身体を放棄して われわれの祖国である天の国に上昇していこうとは思わない。

わたしたちが 《神の国 Civitas Dei 》と呼ぶものを証しするのは聖書である。聖書は 人間の心に浮かぶ偶然の思いによって成ったのではなく むしろ明瞭に あらゆる種族のあらゆる言語を治める至高の摂理の導きの下に成ったのであり かつ神の権威によって高くされて あらゆる種類の人間の才能を従わせているのである。
そこには たしかにこう書かれている。

神の国よ あなたについてもろもろの栄えあることが語られる。
詩編87:3)

また ほかの詩にこう読まれる。

主は偉大であり われらの神の国において その聖なる山(確立されたアマアガリ者の信実)の頂で高く讃えられる。その讃美は全地に喜びの声をひろげる。
詩編48:1−2)

  • むろん註解もしたように 《神学の秘密が人間学である》なら 神の霊の住まいであるところの自己が 讃えられてもよい。ただ 神は人間なくしても存在するが 人間は神なくしては生きていない。つまり《自由》を思惟しなくなるであろう。そこで 《誇る者は主において誇れ》(コリント前書1:31;エレミヤ書9:24)と書いてある。それは 宗教制度的に《主を誇る》ことではなく 《自分が敬虔なとき それを自分の功に帰さない》(告白10・2・2)というほどの主観の内での滞留をともなってというほどの意である。

同じ詩の少しあとにこう読まれる。

われらの聞いているとおり 万軍の主の国とわれらの神の国で われらは見た 神はとこしえよりその国を据えられた。
詩編48:8)

さらにまた ほかの詩にこう読まれる。

さかまく水の流れが神の国を喜ばせ いと高きかたがその幕屋(かつてのヤシロの社殿)を清められた。神はその真中にあって動かされることはない。
詩編46:4−5)

神の国について11・1)

これらの またこれらに類するすべての証言をあげることは あまりにも長くなろう。ともかく わたしたちはこれらによって神の国なるものが存在することを学び知ったのである。わたしたちは その国の創始者がわたしたちに吹きこんだ愛によって その国の市民となることを熱望している。
神の国について11・1)

《先に述べたように これら〔必然の王国と 愛の王国(自由の王国はその理論である)〕二つの国は この過ぎ行く世にあってはいわば絡み合い 相互に混じりあっている》。ここで 《先に述べたように》というのは 《神の国について》第一巻序文で 次のように始められる言葉を指して言っている。少しくどくなるが ここに同じく掲げておこう。

栄光に満ち溢れる神の国は この移り行く時の中にあっては 《信仰によって生きつつ》(ハバクク書2:4;ローマ書1:17など) 不信の子らのあいだに寄留しているが かしこにあっては 揺るぎない永遠の座に確く立っているのである。神の国はこの永遠の座を いま《忍耐して持ち望んでいる》(ローマ書8:25)。しかしそれは《正義が裁きに変えられるまで》(詩編94:15)であり 続いて与えられる最後の勝利とまったき平和との中に完全に受け継ぐであろう時までである。
神の国について1・序)

われわれは これらによって《アマアガリするインタスサノヲイスト共同主観者の交わりが存在する家 都市 また世界について 考え得る》と知る。その内容は ほぼ全面的にマルクスが すでに語ったと考える。ほぼというのは かれの理論に――理論だから そうであって・すなわち可変的であって よいのだが―― いくらかの動揺があったことを わたしたちは知っているから。(アジア的なやしろ――具体的には一例として ロシアのムライスム共同体――にかんする共同主観(コミュニスム)的な資本連関の理論・その視点が まだ定まらなかった。)
ただ われわれがここに くどくどと キリスト史観と称して語るのは 生活がすべてであるからであった。理論は これに付随する役割を果たすものである。それ以外ではないとわれわれは蛇足を付け加えている。なぜなら 生活における愛の行為者が われわれにほかならず それは とりもなおさず われわれが 神の愛の王国をとりまく者へみちびかれる《資本家・インタ〔イエ〕キャピタリスト》になること以外のことではないから。このように簡単に理論して語って 進んでよいと思われるゆえ。
信仰(共同主観)が愛をとおしてはたらくのであって 理論は ここで――言われているように・だから周知のごとく――手段でしかないのだから。しかしながら 理論は それ自体に 神の国が存在するのではないばかりか 人が 回心=アマアガリに導かれるのは この理論によってではなく 信仰によって・だからむしろマルクスならマルクスその人のこころをわれわれが〔内なる眼で〕見て受け取ることをとおしてなのだから。
いや正確には マルクスのこころ あるいはアウグスティヌスのこころを 認識し これをとおして 神から来て神であるその愛すなわち聖霊を 受け取ることによってであるとわれわれは聞いた。むろんこれを われわれは 各自の主観(スサノヲ語)を アマテラス語〔の観想ないし理論〕の意味表示することがらをとおして 自己のものとすることによって行なう。けれどもそれは アマテラス語理論を 知り共有することによってではなく また この理論を 体系化していわば完成させるという作業によってでもない。
いや 実践が必要であるときみは言うことができる。しかし いまこのように議論していることが実践だといった修辞学ふうの反論はこれをどうでもよいとしたなら しかしながら 《いや実践こそが大事だ》とすでに知っているきみは わたしへの反論なんかをよそにして すでに実践をともあれおこなっているはずである。そうして この方法の滞留を考察するわたしの論議に 参加してくれるはずである。わたしは 第二部以降で このような実践の領域 つまりわたしたちのことばでヤシロロジ(生活じたいを含む)の観点を取り入れようと思うが それでも ここでは なおそのような新しい拡大された視点についても 方法の滞留をおこなうはずである。
人間――わたし・きみという生きている人間――が すべてであるという実践が まず確立されなければならない。まずという意味は ほかのことを措いてという意味ではなく ほかのことの中にあって ほかのことをとおして という意味である。これが 学問( disciplina )であるとわたしたちは考えている。《みな学者だろうか みなが理論家だろうか》(cf.コリント前書12:29)と聞いたから したがって 《みな実践家なのである》。
この意味では 《方法》がすべてであると言いかえて さしつかえないであろう。仏典ふうに言うならば そのようにわれわれは聞いた。実践家の身体の中に 理論があり その存在じたいが書物であるという・方法の実現へと向けて。
(つづく→2007-01-16 - caguirofie070116)