caguirofie

哲学いろいろ

#20

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Jean Francois Millet- Bergère Gardant Ses Moutons

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十二章a アマテラス予備軍が解放される

――アウグスティヌス ついに真理にしたがって アマアガリする――


それにしても主よ。御目の前においては 人間の意識の深淵も赤裸々にあらわれています。たとえ告白しようと思わなくとも あなたにとって何かかくれたものが私のうちにありうるでしょうか。
(告白10・2・2)

アウグスティヌスは 現在の自己の省察をつづけています。
前章のわれわれの議論をもう少し引き継ぐならば 

  1. やしろが 資本であり愛であり――また 神学的には さらにすすんで キリストの肢体であるととらえるところまで行くとおもいますが―― 
  • この《やしろ》が 関係(資本・愛)の絶対的な時間(その過程かつ構造)をになっていると考えられ――言いかえると 一つに ナシオナリスム共同自治によって 観念の共同化として 《一つの》やしろとなり もう一つに より質料関係的にも・つまり経済的にも この一つのやしろは キャピタリスム(生産・消費・再生産)による罪(時間知・欲望)の自治の共同性が 有機的にそして自律的な仕組みとなるまでに 確立された――
  • このやしろの中で 現行アマテラス者に対して 支持を表明するにせよ反対の立ち場に立つにせよ 予備軍として自らを措定してしまう人びと かれらは 一般に関与不可能であるが それとして絶対的な関係の中にある
  • 現代に至って このアマテラス予備軍は そのアマテラス語理論において そしてそれを実践する限りにおいて人格としても 歴史にかつて見ないほど最高の段階に到達した――言いかえると かれらは もっぱらのアマテラス者であろうと努めつつ そのために すでに 一般スサノヲ者のアマアガリ自治の秘密を 抽象理性的に かぎつけ 理論として身につけている。もう一度言いかえると かつてA圏の宗教の神なる覆いを批判して進むうちに その《神学の秘密は 人間学である》(フォイエルバッハ) とうたって明らかにしたところ この《神学(八重垣)の秘密としての人間学》を 新しい別種のアマテラス予備軍が 自己の偽りのアマアガリの手段として 自己の理論の中に貯えた――
  • だから 現代において アマテラス予備軍の批判は ただ 神学の秘密=人間学の根拠(それは 愛あるいは資本だが)をもってその言葉としてかれらに指し示すだけでは 不十分である
  • スサノヲ者は もし真正のアマアガリを保持するならば――ということは もはやこれすら 一個の主観の領域を出ないのだが―― このアマアガリの根拠を しかしA者予備軍は受け取りえないし受け取るのにふさわしくないということの根拠を 明らかにして 静かに進まなければならない
  • なぜなら 《それにしても主よ。御目の前においては 人間の意識の深淵も赤裸々にあらわれています》が・つまりこのことが 必然の王国の海を木の船に乗ってわたるスサノヲ者にも あるいは この必然の王国の流れを 雲の上にアマアガリ(つまりアマガケリ)してまぬかれていると自負するアマテラス者にも すべてあたかも真理の動態としてのように 真実となっているからということであった。また この第七点において あの《関係の絶対性》は 人間の薄暮の光(理性)によっても 明瞭に把握されるようになったと考えなければいけない。そこで
  • アマテラス予備軍のヤシロ的な解放は アマテラス予備軍からのわれわれのヤシロ的な解放であると言ってのように この《ますます人間的となりつつ虚偽のアマアガリを敢行するA者予備軍性》 これが われわれの内にあると考えなければならず これを われわれの内において点検し その虚偽を内的に棄てるという作業過程(日々の生活)がつづかなければいけない。ここでわれわれは あの《追い詰められた弱い者のためいき》をも つくのである。ついてよいのである。

けれどもいまや 私のためいきは 私が自分自身に不満を感じている証拠ですから あなたこそは私にとって輝きであり満足であり 愛され熱望されるものであり そのため私はわが身を恥じ 自己を投げすて かわりにあなたをえらび ただあなたによってのみ あなたにも自分自身にも満足のゆく者になろうとしています。
(告白10・2・2)

このためいきは もはや 一方で 《宗教の神は死んだ》のであるから もう一方で われわれは確かに《A者予備軍のわなが――内的にこそ――砕かれ棄てられる》ことを アマアガリ過程において 課題として持つのであるから 一つに 観念的なアヘンとはなりえないし もう一つに 物質(質料)的に展開する闘争の・それを《ためにする》ためのスローガンともなりえない。木の船に乗ってすすむわれを ただ そのように 過程的に とらえるのである。このことが 従来のアヘンを止揚しようとするA語客観理論(ウェーバー)への・あの《関係の絶対性》の世界における内在的な批判を宿すことを 見守っており また 手段として本質的に経済的であるところのヤシロの質料システム変革への闘争 これの推進力を そこに見ようとしている。いや 見出している。
そうして これの根拠を A者予備軍が すでにその精神は アマガケリして高揚しつつ 実際には弛緩しているゆえに 受け取りえないということの根拠を からだごと すなわち日常の生活において 示して進む。われわれは A者予備軍との関係絶対性 すなわちかれらとの関与不可能性のヤシロ過程的な解消を 信じなければならないし 見なければならない。
それは 主観を出ないものであり 出ないでよく また 出てはならないものであり そしてそのようにして 愚か(人間の真実)であってよいのである。われわれは 愚かにもなって 《自己を投げすて 代わりにあなたを選び》 この神(ヤシロの資本連関)の愛に焼き尽くされてのように 静かに愛に燃え立たしめられるのであってよい。われわれは この愛の《内面的な富を自分の外に生み出すためには このような絶対的な貧困(関与不可能性・それにも対処するゆえの愚かの状態)にまで還元されねばならなかったのである》(マルクス経済学・哲学草稿 (有斐閣新書)3・2)と見出さなければならない。
あのスサノヲの譲歩(オホクニヌシの国ゆづり) これは 一回きりであるが またそれは アマアガリへの譲歩ではなく アマアガリを俟つゆえの譲歩であったが このアマアガリ(復活)のためには 譲歩地点の〔人間的な共同性としての〕主観が 内的に死なしめられる もっとも愚か者とならしめられる。ここに立って すなわちこのヤシロのこの上なく安全な望楼――これが カトリックなエクレシア(普遍的な民会)である――に立って 神の言葉に牽き行かれつつ 主観共同化を行なう。けれども 《はっきり言っておきたい。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆 盗人であり 強盗である》(ヨハネ10:7−8)とも言われるとおり アマガケリしてアマテラス語理論において 神の言葉を語るアマテラス予備軍は アマガケリしたところで 地に投げ出されるのだという。このことは むしろ《無知な人に遍く 信じる人には証言として響き渡るように〔神が やしろ資本連関過程をとおして〕なしたまうのである》(三位一体論4・17・23)。

なぜなら 私たちの功績といわれるものも実は神の賜物(われわれ自身 神によって生まれた)であるから。
《信仰(共同主観)が愛(資本関係)をとおして働く》(ガラテア書5:6)ために――私有財産を積極的に止揚していくために―― 《神の愛(インタスサノヲイスムの推進力)は私たちに与えられている聖霊(《現実力》)によって私たちの心に注がれた》(ローマ書5:5)のである。
聖霊は イエスが復活されて栄光( doxa =憶測>共同主観)を受けられたあの時 与えられたのである(イエスを長子とするわたしたちに与えられたのである。わたしたちも死なしめられてかれの復活にあやかってのように復活=アマアガリが約束されたその時)。
アウグスティヌス三位一体論18・10・14)

《必然の王国の海の人間の習慣の流れ》を嘆かない不敬虔な人びとは このアマアガリが約束されていないというほどに アマアガリが約束されたインタスサノヲイストと同じように 神によって〔神の家=やしろの中の資本過程において〕 神の国の歴史的な進展のために(具体的には 私有財産の積極的な止揚のために) 用いられるのである。あせって嘆く人びとは 自己の力で しかもその同じような人びとが集まって《心を一つにして》 もう一度繰り返すと人間の力で この資本連関の過程を しかも観念的に観念共同的に 運営(まつりごと)しようと試みる。必然の王国の罪の共同自治(世間)の外に立って これを動かそうとし また実際には これを――密かに――享受しようとする。(享楽のない心情人。享楽のないと見せかける無関心の心情人)。
(抽象普遍的なアマテラス語理論による幾何学的な等価関係に立つアマテラス語価値は――交換価値・市場価値は―― 一物一価の法則 law of indifference に立つとも言われるが これは 人間・心情の側から見れば 無関心 indifference の法則である。これが 純粋な見せかけ=偽りのアマアガリによって成り立つのだと思われる。(人びとは これにも譲歩している)。ただ わたしたちは このアマテラス語客観理論は アマテラス語客観理論として その限りで 無差別 indifference の一法則としてのように〔・しかもこの法則は それに従うのではなく それを人間が用いる つまり〕この法則をとおして個々のわたしの人間の真実を表現してゆくものであるだろう。)
嘆かない人びとは 人間の習慣の流れの中にそのまま推移する(無常)という第一の種類の誤謬を負っている。いや 人間の心は これを嘆くと言ってしかも しかしもはや あきらめている人びとの歩み これは 第二の誤謬に属する。あせって嘆き 神を問い求め しかも ありもしないところにかれを見出し 神でないものを神とするのは 第三の誤謬である。
この第三の病いの人びとは アマガケリゆき たとい小部分でも神の力に触れ得たのである。触れ得たところで アマテラス予備軍となって(なぜなら なお二元論を手放さない) 自己を確立したと思いなし そうして容易に かれらは このヤシロ関係過程から締め出されるという。A圏が これを招致し求めている限りで 必然の流れの中に むしろ地上的なアマアガリ(出世間者)として その役割をになっている。
ほんとうには締め出されているのだと なおわたしたちが強弁するその理由は すでに 真理を先取りしてしまっており(《わたしより先に来る人びとは 盗人である》であり) また 真理が――かれらのように客観A語理論によってではなく このA語理論をも通してS語真実において――明らかにされても 自分たちの意見を訂正しまいとするからである。(なぜ盗人であるかは A語客観信実のみによる生活は――それが先取りなのであるが―― その主観が つまりは一般的に人びとの主観が 共同性を持つというとき S語信実を下に見てしまう。S‐A連関主体としての存在どうしの互いの主観の一致ではなく 支配・従属の関係を作り出してしまうからである。社会的な役割分担として 権限の上下・厚薄があってもよいわけだが けっきょくは 劣性のS者性に対して どこからか二元論に逃げて 《夜》と見なし この夜を作ってしまうからである)。
(つづく→2007-01-13 - caguirofie070113)