caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十一章b アマテラス語弁論術は かつて達せられたことのない段階に到達した

――アウグスティヌス 現在の自己を省察する――


ウェーバーは さらに一歩引いて この生きたアマアガリに対して 譲歩した。必然の王国に対して あせって嘆いた。――このくだりを承けての議論です。〕
フォイエルバッハは 嘆かないことはなく また あせって嘆くこともなく その道を なおアマテラス語を用いつつだが 方法として示した。
《警察の対象になる》ところに 真理が存在することになったりしたこと またこの真理は アマアガリするスサノヲ者にとって 自己が・主観が 分有しうるちからであることを 警察の対象になることをも辞さず恐れずに 示そうとした。ところが ウェーバーは 《警察(罪の共同自治・A圏支配の統治様式)の対象になる》ことを免れるかたちによって――なぜなら これらの世界を過度に嘆くほどに その世界すべてを《夜》と規定してしまうからだが―― すべて《抽象的理性 A語客観》において この真理〔とスサノヲ圏の経済生活〕を明らかにして把握しようと努めた。この世界から〔さえも〕脱出してのように アマガケリしたと考えられる。
かれ〔ら〕が 羽衣を着た天女 かぐや姫 つうのイメージを愛するのは 必然である。手っ取り早いとでも思ったのだろうか。聖母マリア 聖人だれそれということになる。
神(真理)を問い求め ありもしないところにこれを見出し 神でないものを神とした。かくて 《マルクスウェーバー問題》が 《学問》の一方法・一領域となった。このばあいの《学問とは単に 生活や人間のためにはどうでもよい事物を取り扱うものにすぎない。または そうだどうでもよいものでない事物に従事するが しかしそれにもかかわらず つまらないどうでもよい仕事であって 人間は誰もそのために気を使わないのである》。―― 一般に 《夕鶴つう》に対しては 人びとは 気を使わないということを示すために気を使っているのかも知れない。何気なく気を使っているかも知れない。
つうが 人びとの信じる対象ではなく つまり神ではなく さりとて つうを否定することは できない。それでは(否定できないものを否定しては) 俗物であり必然の王国の真っ只中の住人となってしまう。また そのように見られてしまうとすれば そう見てしまう人びとの良心のために 気を使うのであろう。このような・社会を劇場としたような一種の芝居によって 人びとは 真理を問い求める場を見出したのではなく 作者が 真理を問い求めようとする姿勢を――A語客観としての作品によって あの《救いの客観性》を示すべくしてなのかどうか分からないが とにかく姿勢を――示しているということを 見出すのだけれども さりとて 作者のあるいは つうの 主観的な真実はどこにあるのか 理解に苦しむということであるかも知れない。(犠牲になることをいとわず恩返しをしたあと去って行かねばならなかったツウに対して 同情を示すというのが ふつうだが 同情は その場のつくろい以上のものを意味しない。)
ここは――いま述べていることがらは―― 個人個人の感覚によって違うはずであるのに なおそれを一般化して捉えようとしているけれども このような一つの作品をめぐる人びとの反応とその社会的な作用・反作用の行く方は 分析するに値するかも分からない。もしそうだとすれば・邪推を恐れずにいうとすれば これらの一石を投ずる作品の類いは 結局は 《出雲八重垣に立つ八雲》ではなく さらにこれに第九番目の覆いをかける九重・雲の上のしんきろうを醸成するかたちだと考えられる。たしかに アマテラス語共同観念また共同幻想という。
キリストは去って行ったが 感傷を残したのではなく また なんなら人間的な論法で言う感動を残したのではなく 真理を告知し その聖霊(愛)を受けよと言ったのである。アウグスティヌスはこれを受けたと告白したのである。しかしキリスト・イエスも ひとりの人間であった。自分の羽根から取って布を織らなかった分だけ つまり自殺をしなかった分だけ どうしても この真理=やしろ資本推進力の告知のため 去り行かなければならなかった。かれは 他の手段で たとえば党を組んで その権威を指し示しえたかも知れない。しかし そのやしろ資本推進力が ただ一個のやしろ(たとえばユダヤ社会またはローマ帝国)の中にのみ現実であると人びとがあやまって思い為さないように 譲歩しなければならなかった。生きた人間が 聖霊の住む神殿であることを示すために この見えざる霊的な共同主観の原理に 譲歩した。自殺(広くアマガケリ)がなんら精神の強さを示すものではないことを示すために 徹底的に譲歩しつつ この愛を告知して 完全な普通の人間であろうとし――槍で突けば血が出る肉を持った・しかも欠陥から自由であろうとするスサノヲ者であったゆえ―― 告知の完遂のために 去り行かなければならなかった。

それ故に・・・真理も主義ももたないというのが すなわちかんたんにいえば無性格が 〔かれ真理を学問の果てに追いやった〕真正の推奨すべき学者に必要な特性なのである。

この方法でも 真理を学問の果てに置いたままでも この真理を 価値自由的にアマテラス語理論すれば 捉えるとことが出来ると 模範を示しつつ ウェーバーはうそぶいた。

少なくとも必然的に現代のデリケートな問題と接触しているような学問に従事している学者にとっては 〔このウェーバーが 神の使者となってのように〕 そうである。しかし おかし難い真理愛と決然とした性格とを持っている学者・まさにそのために一撃で急所をつく学者・害悪を根こそぎにしたえず危機や決定的な瞬間を引き起こす学者――こういう学者はもはやなんら学者ではない。どうして学者なものか!〔と〕。そういう学者は一種の《ヘロストラトス Herostratos(c.356 BC。エフェソス人で後世に名を残そうとしてアルテミス神殿を焼いた)》なのである。したがって 即座にかれを絞首台に登らせよ またはそうでなくとも少なくともさらし首に登らせよ! そうだ かれをたださらし首に登らせさえすればよい〔と学者たちは考える〕。なぜかといえば 絞首台上の死は 今日の《キリスト教国法》の明白な原則にしたがえば 非政治的で《非キリスト教的な》死であるからである。そしてその理由は 絞首台上の死は公然と明言された否定されることができない死であることにある。しかるに さらし首台上の死・市民的な死は きわめて政治的なキリスト教的な死である。

ウェーバーが 真理を捉えたと言うようにして 《キリスト教的》でなかったとは言えない。また このような宗教としてのキリスト信仰(つまり宗教となってしまった信念・観念) による罪の共同自治つまり そのための警察と かれが まわりまわって――アマガケリしている地点から まわりまわって――結びついていないとは言えない。

なぜかといえば さらし首台上の死は 陰険で欺瞞的な死だからである。

《絞首台上の死》は 異端裁判・魔女狩りのようなものであり あるいはそれをすでに超えていて ムラハチブのような制裁である。葬儀と火事の二分を残して あとの八分は 付き合わない・無関心でいる・つまり《自殺する》というやり方(資本・愛)は 《陰険で欺瞞的な死》であり このやり口をそのまま かれらの敵・つまりわれら・つまりかれらに反映させ押し付けることになるというのである。

すなわちさらし首台上の死は 死とは見えない死である。

これが その源は アマガケリなのであり そのような罪の共同自治のやり方が 人間の知恵による最高の道徳・律法統治だと錯覚したのである。ここに 資本・愛が プロテスタントらの第一次に継いで 第二次のキャピタリスムとしてのように 増殖し再生産されてゆく。

そして すべてのただいくらかでも扱いにくい問題にかんしては 見せかけ――純粋の見せかけ――を重んじるのは 現代の本質である。
(以上 《フォイエルバッハ全集〈第10巻〉キリスト教の本質 (1975年)》承前)

と考えられた。
ウェーバーが現代における社会科学の隠然とした王者のひとりであり ウェーバー流の方法・愛・資本が 現代における罪の共同自治の偽りの共同主観なのである。
これらは すべて《覆い》であり スサノヲやマルクスがA圏に譲歩したとき かれらはこの覆いなど持たず 一般の覆いには譲歩し わづかに その共同主観の《うた》を 《八雲として立たせて》 しかも 九重なるA圏の覆いをむしろ吹き払おうとしたのである。
ウェーバーは この《八雲》にさらに別種の新しい覆いをかけた。(結果的にそうなる)。スサノヲやマルクスの場合しっかりと足をつけていたそのS圏・八重垣から ウェーバーは みづから進んでアマガケリしたからである。《A圏‐S圏連関体制》の外に出てしまって S圏・八重垣のうたを うたったのである。警察の対象になる真理の国を 自己をそこにとどめず自己を警察の対象にならない地点へ上昇させ そこからアマテラス語理論した。《存在が意識を規定する》限りでは この《精神的・禁欲主義的な真理の国》は――実際にはかれら自身 A圏‐S圏連関体制の中に生活しているのであり―― S圏のうたに参加すると見せかけつつ(純粋に見せかけつつ) 実際には A圏の予備軍となる。つまり A圏支配統治のための新たな覆いを S圏のうたと見せかけつつ 用意しているのである。かれらは このことは実は百も承知なのであるが あの《つう》が そのために 死を死ぬまでにかたくなになった如く そのほうが 居心地がよいと思っている自殺者・関与不可能者なのである。うそだと思うなら このような人びとの例を 思い浮かべてみるがよい。非キリスト教圏の日本には このウェーバー流のうた・実は蜃気楼の覆いは まだ A圏の新しい九重すなわち第九番目の垣となりうる。

峰つづきおほふらむ雲ふく風にはやくはらへとただいのるなり
(御製(天皇 御名裕仁) 昭和十七年 新年歌会始。《昭和万葉集〈巻6〉昭和16年~20年 (1979年)》《非常時下の日常 / 戦時感懐》の項)

時と情況との異同を超えて このうたは《おほふらむ雲》が S圏の《八雲》であるか それとも A圏(ないしA者予備軍)の《宗教の神なる覆い》であるかによって 読みがちがってくるものであり しかも この《いのり》は 真理にただ祈るのではなく この真理をわれわれが分有する・共同主観者となるということを 現代において 意味表示させていなくてはなるまい。
むろんこの《はやくはらふ》べき《むら雲》は 《心の不安》でないとしたら 《敵機》を意味し得た。しかしながら この群雲は 全面的にいわゆる《キリシタン邪宗門》であるとは 考えられなかった。相い交戦する外国としての敵の A圏(またその予備軍)は たしかに――戦争にかんする限り――払うべき群雲なる敵であるが 同じ外国のインタスサノヲイスム思想もしくは生活が 敵だとは ついぞ考えられなかった。したがって

身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて


国がらをただ守らむといばら道すすみゆくとも いくさとめけり
(御製 同上《昭和万葉集》第十七巻《敗戦前夜 / 最後の御前会議》の項)

ここに インタナシオナルなインタスサノヲイスムの相い交流して進む道が開かれた。したがって 問題は 新しい局面に立っての なお《峰つづきおほふらむ雲》のそれであると考えられる。わたしたちには このことが アマテラス予備軍からのやしろの解放の問題であると捉えられた。《純粋の見せかけを重んじるのは 現代の本質(本質的な資本形成・愛・その意味でつきあいの様式)である》から。
また この見せかけなる顔覆いは 純粋のであることによって スサノヲ者の八重垣なるうたを もはやそのまま自己の中味としているであろう。たしかに 《人間性の〔アマテラス語理論として〕達しうる最高の段階にかれらは つまりわれらは 到達した》。
この人びとに対しては そのやしろ的な解放に際して――したがってわたしたちに対しても―― スサノヲ者のうたを ただ 指し示してあげるだけでは 不十分である。唯物史観――それが正しいものであるとして――の理論体系を考え編み出すのでは 不十分である。かれらが このうたの根拠を受け取りえない〔のに 横から割って入って うたっている〕こと いかにかれらがそれを受け取るにはふさわしい者ではないか これらの根拠を われわれは 時として 論議してゆくと考えられた。わたしたちは ここで聖書の世界を《白痴の集まり》とする吉本隆明にさえおそわらなければならない。すなわち 《やしろ資本連関の関係の絶対性》が 愛の・自己のまったき現実であるということを。
(つづく→2007-01-12 - caguirofie070112)