caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第九章b 同じくアマガケリする女と男の一群がいる

――アウグスティヌス 《青年教育の方法を非難する》(告白1・16)――


〔《もっとも無力な人間》もしくは《死者》の中に 象徴的に《昼》を見出そうとする。無理にでもそのように《昼》をこしらえようとするのである。――といった議論を継いでいます。〕
それでは 普通の人間は たまったものではない。しかし あの関与不可能なA者予備軍(殊に 女性の)は そうされても 抵抗を感じない どころか うれしく思うようなのである。かくして そのような人間を探していた〔殊に男の〕A者予備軍は これを 神として祀り上げ仕立て上げる。
竹取物語では その作者としては むしろ 祀り上げるのではなく そのようなカグヤ姫を嘆いて物語としたのであろう。そのような〔男の側の〕インタスサノヲイスムが 見られないでもない。見られるべきであろう。また カグヤ姫が 観念の資本(愛)家であり 求婚者らは それに対して観念の賃労働者をよく演じていることは よく描かれている。けれども――。
《夕鶴》は 作者じしん したがって或る種の《必然》的に読者・観客も 完全に《観念の賃労働者》(A‐S倒立連関体制人)となることを むしろ願っている。そのかたわらで もしくはその初めに もう一つの観念的な意志 《昼》の意志が《永遠の同伴者》であるキリストを 見ている・信じている。だから われわれは救われているのだよと 語ろうとしている。
キリストは これらのアマガケリする観念の賃労働者たちに対して まず譲歩し まずかれらの踏み台になってやれと言ったのである。(ぶたれたなら もう一方の頬を差し出せという戦術のことである)。アマガケリの二元論者は さほどに 関与不可能であるから。(このキリストに従った人びとの時代は――たとえばアウグスティヌスの《告白》を通過した心においては―― われわれは通り過ぎてきた)。
《神のあわれみの佑助により マニ教徒たちの罠が砕かれ棄てられて 逆にやしろのふところに立ち帰ったわたしは 今やっと少なくともあの当時のわたしのみじめさをじっくり眺め嘆くことができるようにな》ったのです。ここに 《救いの客観性》を見たい人は 見よ。間違いではなかろう。しかしそんなものを 《膨れ上がった知識》によって 増殖し再生産されては われわれは たまったものではない。わたしは こうだと われわれは A語を用いてS語を語るのだ。
われわれに 《つう》は要らない。もっと言えば 《かぐや姫》に対しては――信仰の分限に応じてそれだけの愛の力が与えられているなら―― われわれは ただ嘲笑ってあげればよい。これが 共同主観形成へのわれわれの希望である。また この《つう》や《かぐや姫》は むろん 実際には われわれスサノヲ者にとって あのアマテラス者まつりごと当事者を経由して 時に スサノヲ圏に起こる祭りを〔本質=存在として〕再生することによって病いからの回復をはかるとともに 一つに A圏のまつりごとを変革してゆかねばならぬことは 自明のとおりなのである。

しかも おお地獄の流れよ。人の子らは こういうことを学ぶため わざわざ授業料を払って おまえのうちに投げ込まれるのだ。授業料の上にさらに公費の支給まで定める法の庇護のもとに 同じことが会堂でおおやけに行なわれるとなると しかけは大きくなる。おまえは岩にぶつかって こうさけぶ。

これぞ 言語(=A語)習得の場所。事件を説得し 意見を開陳するに 絶対必要なる雄弁術を 学習すべき場所はここなり。

それゆえ私たちは 《黄金の驟雨(しゅうう)》とか 《胎》とか《籠絡(ろうらく)》とか《天宮》とか その他その詩句に託されているもろもろの単語を知るため テレンティウスが道楽者の青年を作品のうちに登場させてくれるまで 待たなければなりません。精神は 壁に描かれた絵をながめながら ユピテルを醜行の手本にいたします。

  • 《つう》または《与ひょう》を 《徳行》の手本にいたします。

そこにはユピテル( Jupiter )が或る仕方で ダナエの胎内に黄金の驟雨をそそぎこみ この女を籠絡したといわれるあの絵が描かれています。
ごらんなさい まるで天来のさとしでも受けたかのように青年が情欲に燃え立つさまを。

  • ごらんなさい まるで色と金との世の中から無縁な《つう》の世界に青年がキリストを得たかのように この金と色の世の中を《上手に》渡っていくようになるさまを。

かれは こういうのです。

何たる神だ。天宮を雷でごろごろゆるがす。
僕は ちっぽけな人間。でも やってはいけないか。
ええくそ やっちまったよ。よろこんで。
(テレンティゥス:《エウヌクス》585−589)

これらの単語を学ぶには こういう醜行によるのが便利だなどということは 絶対に 絶対にありません。しかし こういう醜行を大胆に実行するためには このような詩のことばを盾に取るほうがよろしい。

  • 《つう》の世界などこの世にありえないのだと無理にでも語らせ 必然の王国を 昼と夜との二元論で渡らせるには 演劇の世界がもっともよろしい。

私はけっして ことばそのものを責めない。それはいわば選ばれた貴い器のようなものですから。私は 酔いどれ博士たちが 私たちの器にそそぎこんだ誤謬の酒を責めるのです。

  • 日本人のばあい 《禁欲博士たちが》です。

飲まないと 笞打たれました。

  • 飲まないと 《ムラハチブ》です。

しかも だれか素面(しらふ)(むしろ 酔いどれ)の裁判官に訴えることも許されなかったのです。
(告白1・16・26)

すぐあとに続けて

それにもかかわわず 神よ あなたのまなざしの前で いまではもう安心して過去を想い出していますが 当時 私はよろこんでこういうことを学んでいたのです。そしてあわれにも たのしんでいましたが そのため 前途有望の少年だなどと褒められてもいました。
(承前)

わたしは ウェーバー社会科学の方法を批判しています。
(つづく→2007-01-08 - caguirofie070108)