caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Erfurt is the birthplace of one of J.S. Bach's cousins, Johann Bernhard Bach (1676-1749), and also of the sociologist, Max Weber (1864-1920).

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第八章b 男の女に対する関係の外へ アマガケリ(偽ってアマアガリ)しようとする人びとがいる

――アウグスティヌスの場合 二人目の愛人を持ったのち 回心へみちびかれた――


みづからの回心を語って《告白・第八巻》を閉じたあと かれは《第九巻》を次のように始める。

おお主よ。われは汝のしもべ 汝のしもべ 汝の婢女の子なり。汝はわが枷(かせ)を断ち切りたまえり。わが讃美のいけにえを汝にささげん。わが心 わが舌よ 主を讃えよ。わがすべての骨よ 語れ。

主よ だれか汝に似たる者ありや。

と。語れ。しかして汝 われに答え わが魂に言いたまえ。

われこそは汝の救いなり。

と。
(告白9・1・1)

わたしたちは ここから・すなわち《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》(三位一体論13・7・10)という地点 ここから歩むのが わたしたちの現代人としての方法であると じつは 語っていた。そして《神》の語を用いないのだと。もっぱらのアマテラス者へのスサノヲ者の譲歩はすでに 勝利に変えられたと言おうとしており この地点から 対処すべきだと じつは はじめから考えている。
《収奪者が収奪される》という原点は――なぜなら はじめに つまり モノの交換・収奪である前に 愛の力・資本の推進力・やしろ形成の力が 交換されていたのだから この交換に発するA‐S倒立連関を 死のとげ自体としては すでに取り除いた地点をわたしたちは 見出している―― ここにおいて 観想(テオーリア)されているのでなければならない。この観想(観想は 信仰なる共同主観の報酬である)と 行為との 或る種の理性的な結婚を尋究し 理論(テオリ)も打ち出されてくると言おうとしていた。勇み足のごとく。
だから 理論・科学・人間的な知恵の論法が すべてだとは言わなかった。A‐S倒立連関体制の中でのアマテラス語理論(これは 昼と夜との二元論を出ない)に対抗するいわゆるマルクシスムの批判的なアマテラス語理論体系が 別種のA‐S連関体制(A-S倒立連関を正そうとする国家A‐S連関形態)のための・それを保守しようとするアマテラス予備軍となることを 嫌ったのである。
これが嫌われずに そうなったことは マルクスに罪がある。そして これを穿り出しても始まらない。けれども 人間的な論法で言う理論がすべてではないという――確かにそう言う――もう一つ別種のアマテラス語理論がある。これは 信仰ないし宗教を容れて――排除しないで―― はじめの観想をも説き明かそうとする科学である。
観想をもって理論〔および実践〕へ進もうとするのではなく 観想じたいを 理論的に説き明かそうとする。かれらは 現行支配体制のアマテラス当事者のように 昼と夜との二元論を言わないが――この二元論は ひとまず 信仰の観想を見ようとすることにおいて 超えている―― 人間の理論(光)を超えた存在があるとして この存在への観想の・人間にとっての意味をわざわざ説くことによって 二元論の世界(あたかも 生活)と観想の世界(これが 学問だと言う)とを分け そのようなあらたな二元論に立った。言うまでもなく マックス・ウェーバー流の方法である。
かれらは この方法が 上のマルクシスムを包むと 傲慢にも主張する。かれらは たとい小部分でも あの光の源に触れ得たのである。なぜなら 絶対的な関係(愛)の世界の住民ではあるから。マルクスは たしかに《神から人間の中へ到来し 人間に近づ》いた。そうして 《神》の語をもはや用いなかった。そのゆえに 一つに 理論が観想(もしくは信仰)そのものと考えられた。言いかえると アマテラス語客観理論そのものが スサノヲ語主観そのものとして――たしかにS者の批判的精神(=A者性)においてそうなのだが―― 了解された。または マルクスその人に 神格を見ようとしたのである。
ウェーバー派は このことを正そうとして スサノヲ語(それは 動態)共同主観の観想をも アマテラス語客観(価値自由)理論によって――そのときにはすでに自己を空気のような身体としていると推測される なぜなら 観想を与えられるスサノヲ者の譲歩=共同主観の滞留を 滞留して生きる実態を 身体=S者性においてではなく 精神=A者性へと勝手に引き上げてその領域において さらにもう一歩さがって 知解(理解)しようとした また 推測としては それのみであろう―― だから S語主観を A語客観によって 捉えることが 生ないし学問の方法であると言い張った。これは 滞留ではなく 停滞であり もしくは 実際のA‐S倒立連関体制の二元論世界の停滞をこばむ停滞である。そこにおいては 無関心となりあたかも自殺する。
無関心となり 自殺の道を選んだのであるから――しかし スサノヲの譲歩は 関与不可能を知って その死を引き受けたのである またそれのみであり そうして《ここ》に寄留している―― 自殺したのであるから 自己をそれぞれ空気のような身体と為した。《出雲八重垣に八雲立つ》とき この雲に乗って(共同主観のアマアガリ時に)キリストはやって来るが この雲の中に・あるいは雲のかなたへ 勝手にアマガケリ(天翔)つつ自己をみづから追いやったのである。
そのように上昇して行って 従軍記者またはカメラマンであるかのように 語ろうとしたのである。しかし このカメラマンが かれらのやり方では 実際の(空気のような身体にも足があるとするならその足をそこにつけているところの実際の)A‐S倒立連関の体制の中で 支配者A圏の住民であるか もしくは このA者にだまされつつ S者をだましているかのどちらかである。解放されるべきA者予備軍とは それに気づかないこれらの人びと〔のやり口〕である。また 価値自由な従軍カメラマンの写真撮影なのだと限定されるなら その限りで かれらの理論は 有効であるとか正しいとかいうことにはなりえない。
《わたしより先に来る人は 盗人である》と考えなければいけない。この人の つまりやしろ資本の推進力の つまり愛の S者における共同主観形成の動態的な過程が 生のすべてであるのだから 先にアマガケリして写真報告する情報など なくても まったく不都合であることはない。
ここで《神》の語を用いることをゆるしてもらうなら 

人間は神に寄り縋るにしたがって自分のものを愛しないようになるのだ。ところが自分の権能を験(た)めそうとする欲望によって 自分の或る種の意図のままに いわば中間点としての自己自身へ墜落する。そこで――そこで――神のようにいかなるものの下にも立つまいと欲するとき かれの中間性そのものによって罰を受けて 最も低きものの中へ すなわち動物が悦ぶものの中へ投げ出される。
(三位一体論12・11・16)

かれらA者予備軍にとって このように《動物が悦ぶものの中へ投げ出される》ことは 有益なことだ。なぜなら かれらの〔愛の〕《力は弛緩し失われているゆえに 〔もはや やしろのふところにS語真実において〕帰り得ない》(同上)からである。A語客観理論の《知識が膨れ上がる》のみであるからだ。
たとえば こうである。

〔プロテスタンティスムの〕禁欲は

  • これはまだS語真実を離れていない。

世俗(必然の王国)を改造し 世俗の内部で成果をあげようと試みたが そのために世俗の外物は 

  • 近代以前のもっぱらのA者の〔偽りの〕愛の力が・つまり そのようにS者から交換して得た愛の力が 近代市民において経済的に生産物(販売物)のうちに 抽象的人間的労働たるアマテラス語〔上部構造〕価値の力となって 作用し築きあげた《機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織》といった《世俗の外物》は

かつて歴史にその比を見ないほど強力となり ついには逃れ得ない力を人間の上に揮うにいたった。今日では禁欲の精神は――最終的にか否か 誰も知らない――この外枠から抜け出てしまっている。

  • はじめの禁欲の精神にその精神主義=観念的な《神》を見出し これに拠るところのアマガケリの禁欲の精神は つまりそのようなものが 現実の存在だとするのだから この外枠=実際のA‐S連関体制世界から抜け出てしまったというのである。ふつうの人びとに そのような事はありえないのだが もしこのような認識を得てまた表現までするに至るためには たしかに自己を空気のような身体とせねばならなかったであろう。

ともかく勝利をとげた資本主義は 機械の基礎の上に立って以来 この支柱をもう必要としない。

  • このように見るウェーバー自身は あるいはこの支柱・禁欲の精神を 自己の神と思っているのである。

・・・将来 この外枠の中に住むものが誰であるのか そして この巨大な発展がおわるときには まったく新しい預言者たちが現われるのか 或るいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか それとも――その何れでもないなら―― 一種異常な尊大さでもって粉砕された機械的化石化がおこるのか それはまだ誰にもわからない。それはそれとして こうした文化発展の《最後の人びと》にとっては 次の言葉が真理となるであろう。

精神のない専門人。心情のない享楽人。この無のものは かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた と自惚れるのだ。

と。――
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) 2・2)

観想のS者実態であるものの A語客観的な理論化の例が これである。これが 現実を言い当てているかどうかが 問題なのではない。空気のような身体をもって この《外枠》のさらに外に 禁欲的に精神主義的に 自己を位置させようとすることが――それは端的に言って《自殺》である―― 問題なのだ。かれらは そうしていかなるものの下にも立つまいと決意したのだ。このA者予備軍たちこそ 関与不可能であるとスサノヲ者は 観想したのである。そのとき  《知識は膨れ上がり 徳(S者共同主観)を建てない(コリント前書8:1)》(三位一体論12・11・16)。
スサノヲは これに譲歩して 八重垣S者共同体に拠って この八重垣に立つ八雲に乗ってあの存在がやってくるという虚構のもとに 実際に待ったのである。ということは この存在つまり やしろ資本形成の推進力なる愛を 自己の内に受け取ることを待った。弱い自己が この関与不可能な人びとに対しても 愛の力によって ともに共同主観形成できることを まず信じたのである。ところが この愛は 一度やって来たことがあるとわたしたちは 聞いたことに気づいた。近代市民の時代以降にも マルクスが かの存在を証言したとわたしたちは 受け取った。さすれば この存在の力によって この関与不可能な人びとも やしろ資本連関の中で わたしたちと絶対的に関係しあっていると聞かずにはいられなかった。
この歴史的系譜たるスサノヲ者の信仰を いまなお 観想し これを理論することによって いちどアマガケリした人びとも ここにアマクダリしてくるであろうと まず聞いたことになる。しかし 弱さの中に 日から日へ実践してゆくうちに そのアマクダリと そしてわたしたち自身のアマアガリが ともに成就して 共同主観(常識)形成が確立すると 伝えられたのである。
けれども もっぱらのアマテラス者(この場合 為政当事者)は このようなS者と――人間をあの商品としてしまってのように この《人間》の――交換をおこない それによって得た愛の力を揮っているが かのアマテラス予備軍らは このアマテラス当事者であることを拒み これらA‐S連関のさらに外に逃れようとしたのである。この誤謬(甘えに輪をかけた甘え)は 人間にとってゆるしがたいものであると考えられた。なぜなら 専従アマテラス当事主体らの誤謬(甘え)には まだわたしたちは その健康な共同主観の滞留をもって 寛容でいることは容易であるから。

だから 私たちの時代の継起とか 死者の復活についてはあの(この)哲学者たちに訊ねてはならない。かれらは かれらの出来る範囲で 創造主の永遠性(やしろの《現実》性)――私たちはこの創造主においてこそ生き動き存在する(使徒行伝17:28)――を知解した。
かれらは造られたものをとおして神を知りつつも神を神として崇めず また感謝せず 自ら賢者であると称しながら 愚かなものにされた(ローマ書1:20−22)。またかれらは霊的・不可変的な本性の永遠性への精神の眼差しを 世界の創造主・支配者の知恵そのものにおいて時代の展開を見得るほど確固として定着させるのにふさわしくない。・・・
しかし空中の不遜にして虚偽の権能は たといかれらの占者をとおして 聖なる預言者や天使たちから聞いて 聖徒たちの交わり(インタスサノヲイスム)や都(エクレシア)について また真の仲保者について或ることを語ったとしても 出来るなら 自分には無縁なこれらの真なるものをとおして 神を信ずる者をも自分の誤謬へ渡そうとしたのである。けれども神は無知な人びとをとおして真理が遍(あまね)く 信ずる者には助けとして 不敬虔な者には証言として響き渡るようになしたまうたのである。
(三位一体論4・17・23)

或る人びとはこれらの言葉を聞いて立腹し 自分たちについて悪口が言われていると考えるのである。そして多くのばあい 自分たちが言ったことを自ら理解し得ないで むしろかれらにそのように語る人びとこそ 語るべきことを少しも持っていないのだと思い込もうとする。
だから かれらが私たちに神について問い求めるときに願望する 根拠ではなく――なぜなら かれら自身はその根拠を受け取り得ないし またおそらく私たちもそれを理解し 表現することは出来ないから―― 私たちに要求することをかれらが理解するのにどんなに不適格であり不適当であるかということを かれらに論証できる根拠を 時に応じて私たちは述べるのである。しかし かれらは自分たちが欲していることを聞かないゆえに 私たちが自分たちの無知を隠すために悪辣に振る舞っていると思いなすか あるいは 私たちがかれらの知を妬んで意地悪く振る舞っていると考えるのである。かくして かれらは怒り狼狽して去っていくのである。
(三位一体論1・1・3)

《身体のない精神人 享楽(滞留)のない心情人。この〈有〉のものは かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた と自惚れるのだ》。しかしこれは 真理ではない。《わたし》の真実でもないかも知れない。いや 真実ではある 皮肉としてだが。けれども かれらA者予備軍につけ込まれないためには それらにただ沈黙しないでいるためには 関与不可能な中にも ここまで言うべきであると考えられた。なぜなら 時をたがえつつだが 二人の愛人を持ったアウグスティヌスを かれらは嘲笑えない もしくは嘲笑うがよい からだ。
こう言うと かれらは わたしたち もしくは 当のアウグスティヌスに そらぞらしい涙の思いやりの言葉をかけてくるかも知れない。いいんだよ 大丈夫だよ 心配しなくていいんだよと。この《逆の甘え》から わたしたちは遠ざからなければいけない。または 関係せざるを得ないなら その罠の砕かれ棄てられることを 信じ かつ実践していなければならない。アウグスティヌスは 何もざんげしたのではなく すでにアマアガリがどうしようもなく確立した恵みを得ていたゆえ ここまでの告白を為しえたのだから。
(つづく→2007-01-06 - caguirofie070106)