caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223
( Saint Augustin et Sainte Monique)

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第五章 アマテラス予備軍は 関与不可能な存在として われわれにとって関係している

――回心の共同主観的な構造――

考えてみると 神は――とパウロの表現形式にしたがって見ていくことになるけれど―― わたしたち使徒(外交官)を まるで闘技場の死刑囚のように 最後に引き出される者となさいました。わたしたちは 世界に 天使にも人間にも見せ物となったからです。
わたしたちはキリストのために愚か者となっているが あなたたちはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが あなたたちは強い。あなたたちは尊敬されているが わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは 飢え 渇き 着る物がなく 虐待され 身を寄せる所もなく 苦労して自分の手でかせいでいます。侮辱されては祝福し 迫害されては耐え忍び ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで わたしたちはこの世の屑 すべてのものの滓(かす)とされています。
パウロ:コリントの共同主観者への第一の手紙 4:9−13)

考えてみると 日本には インタスサノヲイスム共同主観は 素朴なかたちで または密教的に 存在したであろうが このような《外交官》は存在しなかったかも知れない。
だから これすなわちキリスト史観を称して 賤民( Pariavolk )による資本(愛)形成の思想であるとかというふうに――むろんそれは 日本に限ってのことではない―― このパリア民なるS者に対する学者A者が とらえるのです。あるいは 《社会の廃物と神経病と子供のような白痴とが密会でもしているような福音書の世界》(《マチウ書試論》(マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)))と称される。
この後者を述べた吉本隆明は 《関係の絶対性》といった視点の導入を基本的に言っていて われわれの愛(資本)の関係の中に――全体として やしろの中に―― 上のように述べるたとえばパウロなるキリスト者の愛つまりその人も 絶対的に関与しあっていると説く。こうなると実際には 共同主観は 主観の共同性ということが いま言うヤシロ関係の絶対性と共通であるとするならば パウロの示す《キリストのために / キリストを信じて》という原主観が――表現の問題を別にしうるならば―― 共通の基底をなす核であるという視点へと 一歩を進め得るかも知れない。
そこで 問題は だれが つまり 互いに《関係》しあうそのどちらの側が 顔を赤らめ 涙を流すか等々ということにある。外交官パウロは この《関係=やしろ資本=愛》の中で 《わたしたちはキリストのために愚か者になっているが あなたたちはキリスト(かれを のちに われわれは やしろ資本推進力とよぼう)を信じて賢い者となっています》と説明している。マルクスは 次のようにだ。

科学の入り口には 地獄の入り口と同じように つぎの要求がかかげられなければならない

ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ。
臆病根性はいっさいここでいれかえなければならぬ。
神曲 地獄篇 (集英社文庫)

(《政治経済学批判》 序言)

なぜなら これは インタスサノヲイストとして《科学》者(ヤシロロジスト)となることは 《顔を赤らめなければならぬ》側に 逆のかたちで ならなければならないからであると抽象的に言っておこう。
《闘技場の死刑囚のように 最後に引き出される者》というあの《ヤシロ関係》の中の一つの立ち場は われわれが最後に立ち帰るべき《やしろのふところ》を指し示す者 その外交交渉をする者 またこれを 科学的にも研究し明らかにしようとする者という側のことを言っている。ただ この外交官は 科学的・人間的に思惟や推測をとおして表象しまた実践もする《自由の王国》のそれでは ほんとうには なく 《必然の王国と自由の王国》との混在する《この世  そのようなこの世には 属していない》(ヨハネによる福音書 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 18:36; 15:19)。
《この世》で あるいは賤民( Paria )であるかも知れないが このパリアとしての愛・その賤民たちのと限定した資本の推進力のことを語っているのでもない。《闘技場の死刑囚のように 最後に引き出される者》(ちなみに《最後》とは 《最初》でもよい)という言葉を聞いたとき 一般にアマテラス者が それは パリア民の愛なのだよと捉え 言っている。――ユダヤ総督ピラトが イエスに《おまえはユダヤ人の王なのか》と尋ねると イエスは《わたしが王だとは あなたが言っていることです。・・・》と答えた(ヨハネによる福音書 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)18:28−38)ように。
だから外交官は 単に人間的な論法で 《優柔不断を捨て 臆病根性を入れ替え》たのではなく 《わたしたちは弱いが あなたたちは強い。あなたたちは尊敬されているが わたしたちは侮辱されています》と述べている。前章で見たように この外交官を アウグスティヌスは友のアリピウスとともに 歴史的に継承したのだった。主観であり 互いの共同主観でしかなく それでよいのである。ここには 一点の曇りもない。
タカマノハラを追われてたどり着いた須賀の地で スサノヲのミコトもたしか言っていた。

吾れ此地に来て 我が心すがすがし。
古事記 上つ巻)

この共同主観者らの《懲罰を受けているようであるが 殺されず 悲しんでいるようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ無一物のようであるが すべてを所有している》(コリント後書6:9−10)という言葉を アマテラス語の観念信実すなわち蜃気楼として 宗教家は説く。マルクスは この点を批判し 十二分に説き明かしたが その原点(原主観)についても一言 ただし書きをすべきであった。逆にもし思いいれをしてかれを捉えるなら かれは 言っても――時代と社会の諸条件からして――無駄であろうと踏んだかも知れない。ただ 一つの欠陥を残したとも言うべき点について 後世のアマテラス社会科学者は これを《ウェーバーマルクス》というような問題として A語観念信実の世界で わざわざ研究し 説き明かすという。みづからはいくらかのものを所有して いくらかのものを所有していない者に対し この言葉すなわち《無一物のようであるがすべてを所有している》と述べた外交官の存在を あたかも鏡とせよなどと言うように。
パウロは 持っていないのに 持っていると言おうとしているのではない。しかし あたかもそう言おうとしているというかのように 持ち上げるのが アマテラス予備軍のやり口である。
このやり方には 抽象的だが 人間の普遍性概念がある。吉本のいう関係の絶対性がある。これを捉え説き明かす人びとは ともあれ それによって ますます人間的となって いよいよ賢くなっている。同時に いくらかのものを所有しない人びとにとって この言葉の説明ほど そらぞらしい蜃気楼はない。この言葉を 宗教的にしろあるいは社会科学的にしろ 価値判断を込めてにしろ 抜きにしてにしろ 説き明かすことほど そらぞらしいものは ない。
われわれも たしかに パリアなる賤民に対しては その愛・資本の形成を推進せよと言うかも知れない。しかしそれは アマテラス語観念信実を説こうとすることによってではない。逆に アマテラス語信実には 普遍性とその真実がある。けれども われわれは これを知解し その知識を啓蒙することによってではない。むしろ このアマテラス語真実をも受け取るなら それを見てそれをとおして パウロの言葉に 顔を赤らめている。
しかも われわれは 必ずしもこれを《告白》しない。もしくは 告白はすでに通過してしまった。顔を赤らめ涙を落とした身体の運動(つまりS語真実)の世界をとおして自己を捉え 逆に この真実なものの愛の形成を阻む者は 自己の中の・あるいは他者や社会の中のなにものであるか これへとアマテラス語概念を用いつつ 思惟を運ぶであろう。この方法は マニケイスムの学問と宗教の中にはないと知ったのである。(この内実を 追い追い 追究している)。だから逆に 自己の中のそれらアマテラス予備軍の罠が 砕かれ棄てられると知ったのである。そのように われわれも死なしめられて かつ復活せしめられたことを知った。
人間キリスト・イエスとわれわれとは 一般に 何の縁もゆかりもない赤の他人の関係であるが かれがそうしてわれわれの長子であると知ったのである。たとえばアウグスティヌスのばあいのようにである。このヤシロイスムは これ以上の価値自由的なまた動機理解的なアマテラス語客観社会科学の理論へとは ひき行かれるべくもないであろう。また マルクスにも逆らうとするなら 《資本》なるヤシロの全領域的なA語知解としてのいわゆる理論体系の構築へとも ひき行かれないであろう。それは 必要不可欠のものとは思えない。この理論体系という意味での《自由の王国》は 一つに精神の共和国というほどに 一つに本質的に経済的なものであるというほどに なお 身体の運動的・必然の王国的な資本(愛)形成のほかのことではない。だから こう言ってはじめて 経済的・質料的なヤシロ諸条件の変革へともわれわれは促される。つまり それへと自由の王国理論を用いることが出来る。
このインタスサノヲイスムなる愛の推進力・その形成過程を 価値自由的に・ウェーバー学的に 知解されることには 憎しみなる関係としての愛を覚えなければならぬ。または 勝手にやってくれと言わなければならぬ。模範予言あるいは使命予言につき動かされたパリアの愛(資本)形成の力なのであると説明されてそこに 人間の高慢を見ないであろうか。A語の保守におもむいて そのようなアマテラス語理解(理解社会学)を 蔽いとして しんきろうのように被せて 自己の心を楽しませている。自己の心を楽しませることが 高慢の謂いである。
われわれは 自己の知解や判断にあやまつ場合 それらには容易に寛容でいられる。しかし A語の観念抽象真実の蔽いを被せるようにして スサノヲ語の真実を先取りし このこと自体が明らかになった場合も 自己のアマテラス語理論(これは しばしば 高慢なる支配欲から生み出される)を訂正しまいとするA者予備軍の欠陥ほど 人間にとってゆるしがたいものはないと思う。
かれらは 《やしろ関係の絶対性》の世界において われわれと 絶対的に 関係しあっており かつ 関与不可能というかたちで 関係(愛)を持つことになる。
わたしたちは このような意味で アウグスティヌスにとって その母モニカとの関係の経験的な生を見出す。《熱心なカトリック信者》であった母モニカが A者予備軍性を有していたと見るのであり また かのじょとの関係で かれアウグスティヌスが この高慢なもっぱらのA者性を すでにいくらか触れてきたように マニケイスムに捕えられて 発揮せざるを得なかった。そうして この場合 関与不可能性が 稀有なかたちで 動いた 解消された事例として その物語を読む。
このテーマを 次章に見よう。(ウェーバーの方法に対する批判は そののちに追って 明らかにしていきたい)。
(つづく→2007-01-01 - caguirofie070101)