caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§4 信用の理論b

倫理学・法学そして経済学を それぞれみな もっとも広義に捉えるなら すべてがすべてであるこの世界全体を言うことになるから ここでは できるだけ狭義に考えるということであり 経済学はここで 有効需要を――或る人が 欲求し―― 有効供給として実現させていこうとする その行為また行為のやり方を 問題としていくと言っていいと思われる。
そうすれば わざわざ 法学経済学を それが含むと言っていくよりは 狭義の固有の経済学行為の〔成立の〕あと 手続きじょうの再整理の問題として これを 法学にまかせたと言っていたほうが 無理がない。つまり 基本的に自由であり その基本的に自由であることは わたしがわたしであることである。これが 経済学の信用の理論である。
もちろん それらの実現を 媒介する具体的な場としての交換信用を その限りで 予定しているし あつかう。つまり 有効交換が 有効な需要と供給との一致に 一致することを あつかう。
交換の無効あるいは不信用が訴えられたばあい これは 法学の問題である。そのように 経済学は つねに 身が軽い。
つまり経済学は 交換価格の利潤損失 これを そのものとして・出発点において むしろ どうでもよいものと見なしている。考え方においては 知っていなければならないが 実践行為としては 知らなくてもよい。つまり こだわらなくても よい。これが 信用の問題であるが 信用の理論は ただ自己信用という一点を――わたしがわたしであることの一点を――言えば済むことであり この信用が したがって特に交換信用として 破綻をきたしているという場合 それは 法学(立法・司法・行政)にゆだねられているのである。そうすることにおいて 経済学は むしろどこまでも 有効である。むろん 法学者個人が 経済学者(生活者)でないことは ありえないと言えるようにして。
つまり経済学は 生活価格の成立を追求する。なにを どれだけ いかに 需要し供給するかである。これの補助の場に 交換があり この交換をも考察の対象に入れることと 交換信用の破棄(またその訴え)に対して しかるべき処置をすることとは 別である。後者を経済学の本体とすることは 経済学の倒錯だとおもわれる。
この信用理論にもとづくなら 経済学は まず 主観の実践行為であるほかはない。この信用理論は 経済の成長であるとか つまり国民総生産といった いわゆる客観的で総体的な集計概念に対して むしろ現実的にかかわり それらに対して問題を提起するはずである。国民所得すなわち〔ここでは〕 事後的で総体としての有効供給=有効交換=有効需要 といった集計概念としての生活信用の価格量は 上の議論にもとづくなら 法学の分野がとりあつかうところの概念なのである。
もし 経済学が そのように今度は やはり広義に 法学を含めた経済学として この国民所得を扱いうる言うのならば 一人ひとりの《自己信用》が需要したあらゆる量を 事後的に総体として ひっくるめたと言っていなければならない。しかも じつに そのようにあくまで経済学としてあつかうというのなら それは そのあつかう人の個人的な《自己信用》が それ自身において あつかうのである。
社会的な一つの役割(たとえば 行政府)として扱うのは 法学の領域である。つまり 経済学に後行する それの後衛役としてであり これは 《ふつうの一人のにんげん》ではなく 便宜的に想定された社会的な役目でしかない。《公僕》という名でその役割を分担する人がよばれるのは どこから見ても ただしい。
堅苦しいことを言うなと言うなかれ。もしそのような あらゆる人びとの自己信用の集計総額つまり 一定の社会生活の総体を 経済学がすなわち一個の人間がつねにあつかっていなければならないとしたら そのほうが 堅苦しい(dismal )ものなのである。あくまで事後的な 自己信用の経済行為事実・その価額的な集計総体をもって 経済がつまり生活が 成長するという捉え方で すすまなければならないとしたば たしかにそのときには 自己信用つまり生活信用は 利潤損失をつねに含んだところの交換信用として 街を歩いていなければならなくなる。わたしたちは 利潤損失にかかわる交換信用は 法学にゆだねたのである。委ね得るということが はじめに 経済学行為である。
もちろん 法学者(政治家・裁判官)が経済学者でないわけがないのと同じように 経済学は法学から無縁であってよいのではない。だからと言って 法学的な信用が 経済学の信用に 先行するとは言えない。凌駕してはいけないのである。自由に有効需要をかんがえ これを実現させる つまり有効供給する。そこに 有効交換も進められていく。これが 自己信用の動態であり 経済学行為〔としての経済活動〕。
国民所得は 法学の分野である。あとで 集計され そこでは 交換信用の有効・無効も 議論されるであろう。このような検討は 時に応じてつねに 必要であり 有効需要の経済学行為にはねかえってくるものだが その法学的な反省が 先行してはいなかった。だから 国民総生産の問題から 経済〔学〕行為に入っていくのは 片苦しい。自己信用が 信用されていないから。そして その意味での信用を・つまりわづかに交換信用を 問題にするのは 法学である。
ところが これを言うと 経済学が規範の科学だと見られやすいのだが そうではないゆえに言わなければならない。すなわち 経済学は 交換価格の利潤損失・つまり交換信用の是非を問わない〔ところで 出発している〕。問うてもよいが 詮索しない。問う必要のないほど 自由である。交換信用から自由であるゆえに それを問うことから自由である。交換信用の問題つまり 生活信用の有利不利のほかに どれだけ 利潤損失が生じているか これから自由である。法学も じっさいは この経済学行為を先行させて 交換信用から同じく自由であるゆえにこそ 役目としては これをあつかい 経済学を後衛する。
法学は 生活の補助の場である交換信用を 経済学に後行する領域として あつかうゆえに 経済学が経験〔科学〕行為である以上に 経験相対的な行為である。しかも そのことを 交換事実に対する事後的な評価や訴えの反省にもとづいて おこなう。国民所得は あたかもこのような信用問題の訴えが起こされたと言ってのように 経済は成長しなければならないと考え 成長するしかないと考え これを大前提として じつは 法学的に規範的に 自己信用を動態させていなければならないという一つの経済学理論(思想)によってもたらされた概念なのだ。
えがおこされることはありうるが これも 主観的に・つまり その当事者双方の信用関係を 直接の対象として 法学が対処する問題である。経済学は これから自由であるし その意味でこの法学の考え方じたいはすでに そこで持っているし むしろそのように自由であることから すべてが出発している。言いかえると 国民所得は どうでもよい。
信用の理論は このような信用関係に立っている。

(つづく→2006-12-16 - caguirofie061216)