caguirofie

哲学いろいろ

#1

もくじ
《はじめ(出発点)》:
・・・a:本日
・・・b:2006-11-27 - caguirofie061127
《価値(たから・とみ)》:
・・・a:2006-11-28 - caguirofie061128
・・・b:2006-11-29 - caguirofie061129
《価格=値打ち・値段》
・・・:2006-11-30 - caguirofie061130
《価格》に対する新しい考え方:
・・・a:2006-12-01 - caguirofie061201
・・・b:2006-12-02 - caguirofie061202
《インタスサノヲ価格》の実際
・・・a:2006-12-03 - caguirofie061203
・・・b:2006-12-04 - caguirofie061204
・・・c:2006-12-05 - caguirofie061205
価格の決定への一つの見方
・・・a:2006-12-06 - caguirofie061206
・・・b:2006-12-06 - caguirofie061207

補遺
・・・a:2006-12-08 - caguirofie061208
・・・b:2006-12-09 - caguirofie061209

《はじめ(出発点)》a

経済学は 知解行為(考える)から始まるとすると それは なにから 始めるべきか。
この知解行為をそれによっておこなうところの 人間の《ことば》について まず 始めるべきか。
はたまた 人間であるわれわれがそこに存在するという場 この《世界》についてからだろうか。
わたしが 《人間》として この《世界》に存在するということを 《ことば》をとおして 知解しようというとき――《経済学》の起こりは これを 基本的な内容とするであろう―― なにから始めるべきだろうか。
それとも 経済学を おなじく広い意味に取り わたしたちは 自分たちが ことばを用いてこの世界にあって人間として生きるとき なにをおこなおうとしているのか これから 始めるべきであるだろうか。なにかをおこなっているという事 これから すでに 出発しているべきであるだろうか。
この広義の経済学は 政治経済学とよばれる。または 経営経済学 または 自治経済学と呼ばれるべきものであって――自治に 文化をふくめてほしい―― それから始めようとした知解行為のほかに すでに実践をともなった意志の行為を ふくめているゆえに そのまま全体として 人間の学でもある。言いかえると 政治 / 経営 / 共同自治の行為と経済活動とをふくめているゆえに 人間が社会的かつ歴史的な存在であるからには 社会の学であり歴史の学である。そして このばあい 社会のなかの階層とか分野とかの違いによって 上のように 政治経済学 経営経済学 共同自治経済学(行政学) 自治(家族生活)経済学とに 分かれるものと考えられる。

  • オイコノミアは 最後の家政論から始まって 国内政治にかかわったものらしい。経世済民は はじめから国家統治にかかわっているようだ。

おなじく かつ 別の観点からは この世界(人間・社会・歴史)の学が 一方でいわゆる自然科学のように その要素・要因ごとの基礎的・客観的な知解行為を基本として理論的な表現行為をおこなうものと もう一方で いわゆる文学のように 意志(愛)の行為を基本に据えて 政策主張的な表現行為をおこなうものとに 分かれると言えるかも知れない。さらに これらの分類のすべては なお別の観点からは ことば(コミュニケーション)の問題であると言っていえなくはないと考える。


このような問い求めの中には これらをもう一度 分析してみると 人間という《主体》がいて 世界の中に モノやコトとしての《客体》があり 客体に対する人間のおのおの《主観》が 過程されているはずである。主体である人間も 知解行為の対象となって 客体であるが 客体を 基礎的に(要素ごとに)知解するのが 《客観》だと言っていることになる。
《人間および世界》は これらも  《自然》であるから その意味での客体の基礎的な認識は ひろく自然科学である。いわば文学としての政策経済学も 客観認識としての理論経済学も 言うまでもなく 人間および世界の自然科学にもとづいて 知解され 客観をもちいて 客体に対して 主体的に 生き動き存在するときの広くことばの行為であるが この一般的な意味での経済学としての主観が ひとつに 共同自治のと・経営のと・そして自治(個別生活)のとに分かれ もうひとつに これらの分類されたそれぞれに 文学(意志)的な政策とか方針とかとしての経済学と 客観理論的な知解基礎としてのそれとが あると考えられる。
ただし 文学そのもの(物語とか評論など)は ことばの上でなのだという前提をすでに言う必要のないほど――個人的な観点としては―― 人間の自治の学(その一形式)であるが 自然科学は それの客観的な基礎認識を 提供している。経済学は 自然科学の基礎を提供されて成り立った文学を 基軸としており 政治経済学としても 個人的な生活の経済学としても ともに同じく 社会(その全体)的な観点に立つものである。
経済学の《はじめ(出発点)》は おそらく これらの全体であるだろう。自然科学は その個々の分野での自然科学者である主体つまり人間として おなじものを《はじめ》としている。哲学は 主体たる哲学者としてだけではなく 哲学というその考察対象じたいも むろんこの同じ《はじめ》を持っている。ただ 通念として言わば 文学や経済学(一般に 社会科学の政策論の側面)とはちがって あそびの幅があって さしせまったものではないと考えられている。文学にも 娯楽の要素があると考えられてはいるが。


このような《はじめ》をわざわざ確認して立てる意味は ひとつに いま 《経験を超えた原理としてのはじめ》にかんしては 詮索しないということである。文学が 自然科学に反することを あるいは 反するようなかたちで 主観を――《原理的なはじめ》にかかわらせて 想像裡に――表現することはあっても この場合も それが 自然科学の基礎認識にもとづいていると 上でわれわれが 言い張ったのは これによって・つまり この《はじめ》によって その反するか反しないかの認識をもっており判断をみちびいているという観点に立ってのことである。
つまり このことをおこなうのは 経済学である。基軸としての文学を 経済学は 固有に社会全体の観点から 整理して立て直す。つまり 経済学としては 《原理としてのはじめ》を詮索しないで 《人間および世界 の全体》という経験的な《はじめ》を立てることによって むしろ文学的な(あらゆるかたちの文学的な)表現行為をも そして自然科学的なまでに客観的な理論認識をも ともに許容するようなかたちで 経験的な学として 自己を主張する。これによって 学としてのカテゴリが 経済学は 文学も自然科学も そしてあらゆる学を つつみこむと言おうとするのではなく その出発点を明らかにしたいがためであり この出発点は その限りで 文学とか自然科学とかも それとして 共通のものとしているところの学のはじめ(端緒)であるであろう。
文学は なおかつ この《経験》から自由になって想像力をはたらかせる。経済学も文学も その《考える領域》が 《信じる領域》へ開かれているが――決して閉じられていないが―― 文学は 経済学とちがって この開放という点で 禁欲しないでよい。或る意味で――ただし いくらか別様にであろうが―― 自然科学の理論でさえ 想像力とかかわらないわけではない。別様にというのは その客観的な基礎認識が 信じる領域への開放という点で禁欲するかどうかにかかわりなく つまり客観が とりあえず 認識表現されることをつとめとしており その背後で・つまり自然科学者たる人間は 想像力の発揮をなんら禁じられていないという意味である。
いま言うところの《はじめ》をわざわざ立てて確認することの もうひとつの意味は このような《経験的なはじめ》をもった学は ほかでもなく 人間の有(もの)であり 自然科学が実験検証的な行き方をもって固有にそうだと言われるように この《はじめ としての 人間・社会・歴史また世界》の経験過程とともに 推移(発展)するという当然の前提を 明らかにするものと思われる。

  • 政治経済学も それが実験は効かないと言われることと むしろ矛盾しないようなかたちで じっさい 新しい政策の施行にあたって ある種の実験をおこなっていると考えられる。

そのこころは 経済学を 政治(国家)・経営(企業)・自治(地域共同体)・生活(家庭ないし個人)といった階層分野ごとに分類することは別にしても 《意志行為としての政策》と《知解行為を柱とする理論》とに分けることは ここで この区別が 便宜的なものであって そうであるか それとも 両者が 貨幣の裏と表であるにすぎないというやはり当然の前提を明らかにするかだと思われる。
この《はじめ》は その意味で 単なる前提だが それが 経験的な社会の全体を言っているというぶんには それによって 最後まで有効となる前提である。つまり この《はじめ》という前提は 別の小論で《考えるは 信じるの関数である》という構造過程的な人間の存在という大前提を 経済学にとって 言いかえたものである。
繰り返しまとめて言って 時間的な前後といったこと・つまり経験と関係のない《原理(その意味でのはじめ・第一でもある)》を ここでは 問うことなく 学(知解行為)の時間的なはじめとして 《経験世界》を立てている 立てていることによって この《社会・歴史》が 時間過程的であって 動いているものであることより たとえばここで経済学も 経験的に推移する知解行為でありかつ意志の行為だということを言う。
学の主体たる人間には――また 広く 世界には―― 或る時間的なはじめが あったであろうから この経験的なはじめを知解していこうとする人間を さらに問い求めの対象とする場合には やはり 《時間の関係しない原理(時間的な初め・終わりに左右されない真理)》が 考察されなくてはならないが じっさいそういうことになるが これは 究極的には 《主観》の問題である。
文学は この問題に そのまま 開かれている。経済学は 今度は その点で禁欲するというよりは ここで 議論の便宜的な前提として《経験世界というはじめ》を立てようという行き方を 確認する。主観の問題が 一般的にも そうである・つまり 人びとに共通して主観の問題であるなら そのような社会的な関係の問題であるなら そのような社会的な関係の問題側面を 経済学もまた 考察の対象に じっさい しているのであり その意味で なんの禁欲の必要も必然もなく おなじく《原理》を問い求めており さらにその知解を表現していくことになるが――実際そうであって 一向にかまわないであろう あろうが―― ここではすでに これを 詮索しないのである。
このことは すでに いわゆる経験科学の本質的な性格として 説かれていることであって旧聞に属するのであるが もし それでも この考え方に――この便宜的な前提ということの確認に――あたらしい視点があるとするなら それは 《原理を詮索しないのだ》と 積極的に 確認し表明することによって だから その意味で《規範》から自由であることによって 《社会》なら《社会》という経験的なはじめが 理論認識にも政策主張にも 最後までつねに 有効であって また そうでなければならないと 言い張ってゆくことにある。
(つづく→2006-11-27 - caguirofie061127)