caguirofie

哲学いろいろ

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もくじ

第一章 あけぼの:本日
第二章 あけぼのの 弁明また弁明:2006-11-04 - caguirofie061104
第三章 しののめの雲:
a:2006-11-05 - caguirofie061105
b:2006-11-06 - caguirofie061106
第四章 真昼のまぼろし
a:2006-11-07 - caguirofie061107
b:2006-11-08 - caguirofie061108
第五章 あまがけるたましい:
a:2006-11-09 - caguirofie061109
b:2006-11-10 - caguirofie061110

第六章 まぼろしのゆうべ:
a:2006-11-11 - caguirofie061111
b:2006-11-12 - caguirofie061112
第七章 あかつき:
a:2006-11-13 - caguirofie061113
b:2006-11-14 - caguirofie061114
第八章 むすび:2006-11-15 - caguirofie061115

第一章 あけぼの

人類の最初に ひとは おのおの自分自身のことをおもって おどろいたに違いない。なぜかって かれ(かのじょ)は 自分が自分のことを 犬や木とちがって 思っているという事態に気づき この事態がほかの人についても同じように起こっていると知らなければならなかったから。《ああ Ah! 》とか 《うおっ Wow! 》だのと発したにちがいない。
ただし まだ――はじめは―― 自分が自分であることを意識したとしても この自分をおそらく他人〔その人の自分自身〕との関係のなかにのみ 捉えたであろう。おそらくその限りで意識的なのだが。あるいは まだ たしかに木も犬も 自分たち人間とは違ってその自己のことを思っていないとわかっていたのだが 人間としての自己は 木や犬との関係のなかにあるとさえ 見出していたかも知れない。というのは 人間どうしの それぞれの自己意識の関係においては その人間界という枠のなかに とじこもりがちだと見なさなければならなかったゆえのように この関係を 他の世界との関係の中にとらえようとしたのかも知れない。
その 他の世界とは 犬や猫やほかの家畜よりも 狼や熊やまた鳥や魚のほうが つごうよかったかも知れない。あるいは もっと むしろ動かないような木や石や山や海との関係に 自己の意識やそのような人間どうしの関係をなぞらえて見てみたほうが より一層 落ち着いたものとなったのかも知れない。
人間どうしのあいだで 互いに 自己意識のはね返りをやり取りしているだけではなく その発見のおどろきを 神木・神石あるいは神体山のような その種の自然を対象とし それらとの関係におきかえて眺めてみるほうが しっくりと来たのかも知れない。鳥や魚や その他の動物が トーテムとなったりすることも考え合わせられる。
この限りで こうだとすると 人は互いにそれぞれ自分が自分をおもっていることの発見に まだ おどろいており このおどろきの分だけ 自分つまり人間を超えて 一般に自然のなかに おさまった。言いかえると こういうふうにして自然のふところに抱かれながら 人間と人間との関係を 確認しあい 推し進めていった。
おどろきは ことばとして かみに関係づけられた。自己つまり自己の意識は 人間であり かれは おどろきを通してあまねく神に関係づけられた自然のなかにいる。


つぎに この人間たちのまじわり(交通)について 考えてみる。
この人間は それぞれ自然とのかかわり(関係)のなかに 他の人間との かかわり(関係)をもっている。この第一次的な関係(世界関係)のなかで 互いに交通しあう。かかわりを まじわりとして すすめていく。
かかわりは 生きること・つまり共存性であり まじわりは しごとの上のそれであるだろう。関係は 生活そのものであり 交通は 生産とか労働のことであろう。
労働によって――むろんはじめは 狩猟・漁労・採集によって――獲得したものに 自分たちの消費すべき量を越えた余剰が生じたあとか あるいはその前にもであるか分からず 人びとは 交通の関係において そのようなものの 交換をはじめたはずである。しごとの上のまじわりにおいて そこでただ協働するというだけではなく その仕事の成果を やり取りし始めた。交換は 一定の生活の共同体と他の共同体とのあいだに初めて生じたと言われるが 同一の共同体の内部でも 取引きはおこなわれたかも知れない。
ただし 自然のなかにまだ溶け込んでのような同一の共同体の内部では 生活上の・つまり生産上の 融通(やりくり)は まだ 交換とか取り引きとは言わない。
はじめの人間たちの交通(まじわり)を考えてみるとき その前に――前提として―― 自己意識(おのれをおもうこと)しあう人間としての生活(いきること)・また関係(かかわり)があり  そのあとに――生活・関係そして交通の内容として―― 交換(とりひき)をもった。交通(まじわり)自体の内容は 基本的に 労働=協働(しごと)・つまり生産とか消費である。交通は とうぜん 生産(とる・つくるなど)と交換と消費(たべる・つかうなど)とである。また 消費のために生産とか交換をかんがえ あるいは 生産とか交換それじたいの中でどのようにするかを考える仕事も 交通であるだろう。
あの分業は――つまり個々の仕事のではなく 社会一般的な分業は―― 交通が 生産と交換と消費の三つの側面に分かれたとしても ただちに 起こったのではなかろう。ただし 生産の中で 或る人びとはそれぞれ専門的な仕事に専念してよいと考えられていったときには つまり そのこと自体 分業の発生である。道具をつくる専門家などが出現すると――つまり その出現に人びとが同意するようになると―― このような分業の形態として 一定の共同体の内部で 専門的な仕事をする者と一般の生産者とのあいだにも 交換がおこなわれていくであろう。はじめには これも まだ単なるやりくり(融通)であったとしても。
共同体間あるいは共同体内部の 交換や分業にあたって 貨幣の出現の問題はいま措いて考えるとすると 一定の共同体の中で 分業や交換の規則(決まり)を必要としたはずである。共同体どうしの間では たしかに その交通が モノの交換を しるしとしては 基本としたし 共同体内部でも 専門家のつくるモノを交換の特殊な対象としたであろう。
共同体間では 相互の贈与であったとしても 人間どうしの交通のしるしとしては その贈るモノを基本としたであろうし 共同体の内においても 人間的な交通を基本としたモノの融通であったとしても このモノは 一般生産物ではなく 専門的な特殊なモノとなっていたであろうから。つまり このようなモノの交換には どう交換するかの決まりを必要としたであろう。言いかえると これをきっかけとして 人間どうしの交通一般に 何らかの新しい決まりをつくる必要があった。
自然のなかにはぐくまれている自己意識の――ともあれ すでに潜在的に・萌芽として 自己意識の――関係から成る一定の集団にあって 一般に道具を専門的につくる人間が現われ このことに人びとが同意したあとには この道具という特殊なモノをつくる仕事にたずさわる人は その交通の中で たしかにその専門的な仕事ということにおいて 言ってみれば専門的な自己意識をもったか または そうだと見なされたか したであろう。ここでは 互いに同じ《自己意識》の関係から成る共同体の中で 《ひとりの自己》=《ほかの誰でもない〈わたくし〉》を自覚した人間が現われるに至ったにちがいない。
貨幣の問題はなお別として そのときにはまた 生産物の余剰(すくなくとも貯え)が すべて共同体じたいのものなのであったとしたら 上の専門的な仕事をする人の《わたくし》の意識が 互いに反映しあってのように 《これは わたしの余剰が》とか《いや きみのは この部分が》とか言い合うようになり はじめの言わば未分化だった自己意識が それぞれ――この限りで――独立していったと考えられる。
いや それでも そうではなかろう 共同体は まだまだ一体であったと言うぶんには とうぜんのごとく 共同体どうしの関係・交通・交換において ひとまとまりの共同体としてのわたくしの意識が 生じることになったか すでに生じていたかということであろう。
これら全体を考えるに 《集団としてのわたくし》も 他のそれと 交換しあうというときに その交換の 仕方・品物を 決めあわなければならないから――まず 集団の内部で 決めあわなければならないから―― 《わたくしの自己意識はこう思う》《きみはどうか》というやはり自己意識の分化ないし独立が 現われてきたと考えられる。

  • 《きみは そう思うかも知れないが 集団としては やはりこうすべきではないか》というような考えが すでに現われるなら これは 《団体としてのわたし》と《個体としてのわたし》とを きちんと区別している。この限りで すでに このいわゆる原始時代ないしその直後の社会に 自己意識の独立は現われることができたと 想定してよいように思われる。

自己意識の発見のときのあの《おどろき》の 自然との関係から しだいに自由になっていったとも考えられるし 逆に この自然との関係に自己意識を置いて捉えるところのおどろきが むしろ――おどろきの仕方に 個人差があると言ってのように―― おのおのの《わたくし》意識を うながし 確かなものにしていったとも考えられる。

  • 人間の 自由な独立した主観を想定しようとする場合 社会から切り離され 自然に対して優位に立つといったことを 絶対的な条件とする必要はないであろう。共同体から自立し 自然との関係を対象化しこれを自覚することは 必要だし 基本的な内容だと思われる。
  • つまりこのことは いわゆる近代市民の出現として 歴史にあらわれるものであるが それは ここで想定しようとしてしているところの 原始社会の直後の時代に現われた独立して自由な自己意識が より鮮明となり ほかでもなく現実的となったものだと考えたい。物語として こういう前提で 話をすすめていくつもりである。

一定の集団の内部で 内外の交換から ということは 分業という事態の中から だから一般に交通関係の領域において 人びと一人ひとりに 《わたくし》意識が 芽生えた。潜在的で他者と未分化だった自己意識が 顕在化し分化・独立したものとなっていく。もちろんまだ 自然の中に社会の中に 存在し共存している。ただ こうして人びとは あのはじめのおどろきを 対象化して自己確認しあう段階にまで至っている。そして おどろき一般から自立することは必要であるが 自然から・また社会から自己を切り離してまで 自立する必要はないであろうから 遠く(つまり現代から見て近く)近代市民という自由な歴史的な人間の出現のためには むしろこの段階で じゅうぶんであるとすら考えられる。言いかえると この限りで すでにここに人間の誕生が成ったとも考えたいのである。
なぜなら人びとは いま 自然的な共同体の中に生きているのだが すでに その交換・交通・生活の関係を この限りで自由に おのおの《わたくし》が 考えて生き 考え合って進めていくところに来ているのであるから。

  • 物語としては どうしても この希望を含んだ観測のうちに 話をすすめたいと思う。もっとも いま考えている人間の誕生が やはりやっと近代という時代に成ったという向きには それでも その近代市民という人間の誕生は この新しく歴史的にはじめて分業社会に入ったところの人びとにおいて やはりやはり潜在的に成り立っていたであろうと捉えて 物語は始まる。

歴史の誕生は――たとえまだ文字を持たず記録に残されないとしても―― このような生活共同体が 交通関係また交換の一定の決まりをもって そのような社会として 歩み出すときであるとも考える。決まりを持ったことじたいでもなく 持った決まり(おきて・法律)を守りきっていることでも必ずしもなく 交通関係を 決まりを持ちうる潜在的な能力のもとに 社会的にすすめていくこと これが 人間の誕生によってもたらされた歴史の誕生のことだと考えたい。
共同体内外の分業形態が定着してきた段階にあって この分業形態を一つの基礎とした生活関係の中で またその生活関係を 自由な《わたくし》たちが 自由に考えを述べ合って 社会をすすめていく これが わたしたちのそこに住んでいる社会といま考察の対象とする歴史とのはじまりだととらえた。以下 こういうわがままな想定のもとに 筆に任せての話を――。
(つづく→2006-11-04 - caguirofie061104)