caguirofie

哲学いろいろ

#29

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第三章 日本国由来記

第八節 日本というヤシロ連関

南北両朝が分立してから五十数年 後小松天皇の代に至って両朝が合一した。まだ両朝が合一しなかったときにあって どちらが正統 どちらが非正統であったか。あるひとは 《神器が南朝にあったのだから南朝が正統である》と言う。頼襄(らいのぼる)は言う 《いやそうではない。だいたい神器が北朝にあったら 北朝が正統となるのであろうか》。南朝が正統である根拠は神器があるかどうかということとは関係がない。

と 山陽頼襄(1780〜1832)は 強烈な限りに 南朝正統論をオモロしている。それは 《アマテラス/アマテラシテ ‐ スサノヲ》連関体系なる国家の中で 社会科学主体アマテラスと 象徴アマテラシテとの関係が どのようにして正統性を主張しうるか その意味での南朝アマテラシテの正統性論である。
言いかえると 現に このとき頼山陽じしんは 北朝の系譜から出たアマテラシテ〔と徳川アマテラス〕のもとに生きているのであって そのときそれでも このような系譜の継承は 南朝の正統性の理解と相容れないものではないとして これを中心的な主題として論じている。
わたしたちは 伊達千広《大勢三転考》の言う《第三転》にかんして 紙面を割いて来なかったが この頼の文章をそのまま引用しかかげることによって これを補おうと思う。
問題は 《第二転》の原共同主観とその第二段階なる展開との関係 したがって 《第三転》にかんして 形態的な国家のアマテラシテ/アマテラスの系譜継承と はじめの構想としての(それは動態である)国家共同主観オモロとの兼ね合いが それである。わたしたちは 第二転(その第一段階)と 明治維新の第四転ないし昭和戦後の第五転とのあいだに 第二転の派生形態およびこれの転回としての第三転があると仮説してきた。このようなオモロ構造の中に 第三転時代の一展開例の論議を読むということは 形態としての国家(それも オモロの一形態ではあるが)が 国家共同主観なる歴史の大前提の舞台で踊ったその展開例を見るということだ。
だから結論的に言って ここでの頼山陽の論旨は 論理的には少なからず破綻をきたしているものだが この大前提の観点をもってくれば うべなわれないものではない。言いかえると 南北両朝の分立は カシハラ・デモクラシ共同主観における《あかぐちや‐おぼつ》連関の内の タカマノハラとしての後者(=おぼつ)の要因 これが 二つの系譜としても相い分かれえた(形態的に分裂しえた)ことを物語る。つまり 権威なるアマテラシテと権力なるアマテラスとである。頼の論議の展開の仕方 これには非常に興味深いものがあるので この一主題全体の論を引用してわれわれの論議に代えたい。以下 全部 引用である。なかで 少しく注釈をなす。

いったい後醍醐天皇北条高時を討って祖宗の仇をかえし 皇室家の大恥をすすいだ。ところが狡猾な賊 足利尊氏がつづいて起こり 後醍醐の存在が自分に不便であるため さらに別の天皇を擁立した。二人の天皇が皇統を争うという状況が出現し 尊氏自身はそのあいだに立って志を遂げた。しかも尊氏は 《自分は天皇を向こうにまわして天下を争っているのではない。天皇天皇とが争っているのだ》と称していた。世の中の 利欲をのみ追求して恥も無い者どもは尊氏になびきしたがった。かれらもまた 《自分たちは北朝天皇に仕えているので 足利氏に仕えているのではない》と称し かれらの仕える北朝天皇が 足利氏の門下生みたいなものであることを無視した。
豊仁親王光明天皇)が位に即くと 当時の民間には この天皇は一戦の手柄もないのに将軍尊氏によって帝位をあたえられたとまで言うものが出るに至った。こんな状態であってみれば たとえ神器が北朝がわにあったとしても どうして北朝を正統であると言うことができようか。
それゆえ すこしでも人間らしい心を有(も)つ者は みな互いにひきつれあって南朝についたのである。公卿もそうだ 武人もそうだ。愚かで卑しい民衆もまた南朝についた。されば ましてや神器が北朝にあらずして南朝にあるのは当然である。祖宗がみちびいたのであり 天道に従うものである。
しかるに北朝に仕える人びとは 南朝に勝とうとして 《尊氏は剣である 良基は玉璽である》などと強弁した。

  • むろん カガミ・ツルギ・タマが 三種の神器である。カシハラ・デモクラシの共同主観が このように形態的に フヂハラ仮象デモクラシ的に しるしを持って オモワレた形である、

いったい剣が無く玉璽が無いぐらいならかまわない。逆賊を剣であるといい そして剣と玉璽があるから朝廷であると誇称する。こんなことだから忠臣や義士が北朝がわに立つことを希望しないのであって 北朝に剣や玉璽が無いからではないのである。逆に南朝がわに立つものは剣や玉璽があるから南朝につくわけではないのである。

  • ここで 形態的なしるしが 仮りのものであるという共同主観が 頼によって確認される。つまり確認するのは カシハラ・デモクラシに立つものである。

いったい南朝の俸禄は北朝につく場合の利益におよばない。南朝の官爵は実権の点で北朝のそれにおよばない。それにもかかわらず南朝につく者は互いに困難を分かちあい 首を切られ 身を殺され 内臓を地に塗りたくり 子孫まで賊の手にかかって皆殺しにされ 水や灰のように尽滅するとも ぜったいに南朝に背逆して北朝にゆこうとはしなかった。識見のある人びとはこの点について心を痛めた。それゆえかれらは南北合一の提案をし 南朝の志士たちの心をなぐさめると同時に 戦禍を終わらせようと考えたのである。


だいたい後醍醐天皇というひとは 祖宗の心を体して人民を救う心よりも 天皇の位に楽しみ欲望をほしいままにしようとする気持ちのほうが強かった。その気持ちを成し遂げようと求めたために その後五十余年間にわたり 天下の臣民・義士や公卿・武士や凡夫・卑賤の者に この禍をこうむらせることになった。祖宗(――カシハラ・デモクラシのセヂ連関。つまり 人びと――)は とうとうこれを助けなかったので 南朝の皇統はついに断絶し そして神器も北朝に帰したのである。しかし 北朝によって天皇を永遠に伝えられたのは これまた天が祖宗の徳を忘れず 子々孫々までをも愛護してくれるからである。

  • まだ カシハラ・デモクラシの歴史的な大前提の上に人びとのセヂ連関は やしろ全体的に 乗っかっていたというのである。

この極にまで来た以上もはや必ずしも南北の正統・非正統を論ずる必要はない。天と祖宗とから見れば南も北もひとつだからである。
しかるに足利氏は依然として 《北朝はわが足利家の立てたもので 南朝はその仇である》と言っている。世間の良識のない人びとは やはり南朝を排斥して その忠臣・義士を国賊よばわりしている。是と非とをひっくるかえすさまはこのようなものだ。かれらは 南朝に忠であった者が ただ単に南朝に忠であったばかりではなく 祖宗に対して忠であったということを悟らない。もしこのような忠臣・義士がいなかったならば 足利氏はけっして公儀をおもんぱかって皇族を戴いて天皇に立てることなどしなかったであろう。

  • このあたりから 頼の文章の論理は しどろもどろである。この文章が表明されえたことの背景を人は 思うべきである。

つまり南朝の忠臣・義士は北朝に忠であったと言ってもかまわないのである。足利氏は滅んだけれども皇統は厳然として存在し 天下の人心はこれをあおがないものがなく 神器は千年の後まで安泰である。南朝の忠臣・義士たちもこれで瞑目できるであろう。だから襄は 《祖宗の意と天および人の心とが帰するところを正統とする。正統のあるところに神器が帰するのであって 神器のあるところに正統が帰するのではない》と言うのである。

  • この後半の史観は 仮りのものという大前提に立ってと言うことであろう。したがって わたしは言う。カシハラ・デモクラシのときに 形態的な国家はむしろ不必要と思われていたのであって なおさら しるしとしての神器はそのときオモワレるべくもなかった。いまの時点で言って 象徴元首・天皇と市民政府アマテラスとは 主権の存する市民の総意にもとづくものであって これは カシハラ・デモクラシ共同主観を継ぐものである。


ある人が頼襄に向かって言うには 《お前の正統論はもっともらしく見えるが お前もまた北朝の臣子ではないか。なぜはばからないのか》と。襄は言う。《どうしてか。あなたのいう北朝はどこにあるのか》と。その人は言う。《公の朝廷がこれである》と。襄は言う ああ 今の朝廷は神武天皇以来一系の朝廷である。どうしてこれを北朝であるなどというのか。
北朝と言うのは 延元から元中までの間 天皇が南のかた吉野に遷っていた際に 賊臣足利氏が私的に立てたものである。このときにおいては南は正朝で 北は偽朝であり 南朝に仕える者は名誉で 北朝に仕える者は恥辱であった。だから南朝北朝という名称の区別をせざるをえないのである。しかしながら すでに天がその禍乱を悔い 祖宗が人びとの良心を誘い出すと 和議が講ぜられ南北合一が成立した。いったい後亀山天皇後小松天皇に神器を授ける際に 衰え果てた流浪の身でありながらも けっして降伏の形式にはしたがわず たしかに父子の礼を用いた。足利義満の暴威をもってしてもこれを変えることはできなかったのである。
ここではじめて後小松天皇は 神器を伝えられ 位を譲られたので 後亀山天皇を尊んで太上天皇とした。事柄は立派で 儀礼にかなっている。これによって以前の二派に分かれた醜状を洗い浄めて 上は列聖の紀綱を受け継ぎ 下は後世に模範を示すことができた。おそらく天と祖宗とがこれを助けたので 足利氏ごときのよく為しうることではないのである。そののち内紛はあったけれども 天命は大いに定まって現在に至っている。百余年にわたって京師に蟠踞し 朝廷を混乱させた賊臣足利氏は ことごとく誅に伏し あるいは流された。朝廷は昔の清明にかえり 皇統をますます偉大にしている。それは月や太陽がふたたび天のまんなかに上って山河を明らかに照らすみたいなものである。しかるに 何を苦しんで 依然として北朝北朝だと口を汚してわめきたてるのか。

  • 後醍醐天皇の非は どうなったのだろう。《祖宗の心を体して人民を救う心よりも 天皇の位に楽しみ欲望をほしいままにしようとする気持ちのほうが強かった。その気持ちを成し遂げようと求めたために その後五十余年間にわたり 天下の臣民・義士や公卿・武士や凡夫・卑賤の者に この禍をこうむらせることになった》ゆえ 足利氏が出たという考え方は採らないのだろうか。
  • 両朝合一で 天道に従い天道に落ち着いたのであれば たとえ賊臣の要素があったとしても すべて清明にかえり 和を以て貴しと為すべきではないのか。これが ミマキイリヒコのカシハラ・デモクラシではなかったろうか。そもそも なんで 人間が 天誅をおこなえるのか。
  • そもそも 天皇家の血筋や継承のあり方などは カシハラ・デモクラシの正統性に 仮象的にしか かかわらないのではないか。正統性は ミマキイリヒコの日子=アマテラス公民とオホタタネコの根子=スサノヲ市民との 共同主観におけるセヂ連関としての一致 これが 判断の基準となるのではなかったろうか。これは ただちに皆に明らかではないから 自由な万機公論に従うべきではないだろうか。


いったい北朝とは 足利氏の門下生となり 自ら小朝廷であることに甘んじていたものをいう。これこそ臣子が口にするのを当然はばかるべきものではなかろうか。いま子供をつかまえて 《お前は新田義貞楠木正成の類であるか》と問うてやれば 子供は大喜びをするであろう。《おまえは尊氏のなかまであるか》と言えば 顔色をかえて怒るであろう。いま自ら北朝の臣下と称するなら必然的に 足利氏をば天皇を廃立する国家の元老とし 新田氏や楠氏を国賊と看做すことになり 甘んじて天下の人心にそむき 万人の侮蔑をうけるようになるが それは何ということであろうか。
いったい天と祖宗とは すでに北朝天皇をたすけて真正の天位にのぼらせた。〔だからもはや北朝というものは存在しない。〕それにもかかわらず南朝正統論に就こうとせず 墓の中に朽ちている足利の屍骨を気にかけて 依然としてくそだめのなかに落ちこみ ついに洗い浄めることを承知しないのは 古人のいわゆる自分をきずつけ 君主をきずつけるものである。私はけっしてそんなことをしない。それが臣子の心というものである。この意味を明白にしておかないと 今から万代の後 天地の状勢が再変し もういちど足利氏のような悪がしこいものが出て 自分に便利な天皇を擁立することになった場合 いま北朝の臣子だなどと称しているものは きっと引き連れてこれに従うことになるだろう。そこにまたひとつの北朝を生ずるのである。それをわたくしはおそれる。だから弁明しておかざるをえないのである。
頼山陽:日本政記 第七十五 後亀山天皇記 論賛。植手通有・藤井貞和訳)

(つづく→2006-10-17 - caguirofie061017)