caguirofie

哲学いろいろ

#23

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第三章 日本国由来記

第二節b わがくにの国家は 仮りのやしろ形態として共同主観したものである

第三の態度は 新しいスサノヲのオモロをまず受け取ることから始める。タカマノハラ思想は 自分たちの《あかぐちや‐おぼつ》連関なるオモロのオボツなる天の要因であると認識した。また 要因の共通性がなかったなら オモロ全体の構造を再認識し再形成する行き方である。
新しくやって来るのであるから それらの人びとが まず客であることに違いはないが この地で共存を求めようとするなら 互いに主体であることに変わりはない。主体として――そのときには 異なるオモロとの異同についてむろん それとして識別している―― オモロを展開させるのであり このことに何の変化も疑義も生じず したがって 取り替えばやの必要も生じない。また 類の問題としても 《あかぐちやぜるままがなし》つまり生活の要因は 普遍的に――それが 絶対的な第一義と言うのではないとしても あるいはまた逆に あたかも 第一義であると言いうるかというまでに――共通の基盤であることを知っている。ただ その手法に違いがあるのであろう。一般に そうなのであろう。クセがちがうのであるから。
沖縄に客人(まれびと)のオモロがあるが これは 新しくやって来る人びとを それとして認識する概念である。つまり これにまつわる枝葉の派生的な・時に宗教的なオモロ要因を取り除いて それとして 確定したい。この場合 時に 第一の態度すなわち 別の地へ逃げたという過去の負債を思って 客人を ただそれであることによって 崇拝するような一つの信仰にまですすんだかも知れない。しかし 客( host / hostile = guest )が 主体( host )となることは 互いにヤシロ資本連関の一員であるという基盤に立つなら 容易に起こることであり これを妨げるものは何もない。
そうではなく 《外山なる(客なる)真析の葛が 先住のわれわれの間に入って(――入らせて――)はじめて あたたかく色づくであろう》という摂り込み=排除の思想は それまでの先住者であることの主体性をぐらつかせたオモロの傾斜形態である。それは 愛を問い求めつつ ただしく これを知らないことによって まず客体と主体とを 従来のすがたで 固定させ なおもその位置をたがいに取り替えよう そうすればかれらも安心するであろうという――そしてさらに言いかえれば 《その人の立ち場に立って考えてあげなければならない》という独立派の道徳というような――新しい(古い?)オモロをうたったものなのである。これが 客を迎える正しい態度であると思い込んだのである。
けれども この取り替えばやのオモロ転化は 一般に容易に起こりうるし 見出される。というのは 同じ土地で新しく生まれた新しい人びとに対して つまり子どもなる新しい世代に対して かれらが 時に時代に応じて新しいオモロを形成してゆくとき このオモロを 旧い主体が 主体の位置を離れ去ってのように 取りこむからである。むしろ古い主体は 新しいものに対して ゆえもなく恐れをいだき 第一の態度のような逃げることをしないとすれば かれらは これに取り憑くのである。憑依するなら 恐怖も薄れるであろうと またそこに 共同主観つまり愛が生まれるであろうと信じ込んだ。これはむしろ 依り来る人びとである第三のスサノヲのゆえか もしくは 自分たちがもともとは依り来た人びとであったことによる。また 新しいそれらの人びとを見て 新しい憑依の仕方と交換したのである。
子どもであるからと言って かれら古い世代の人びとは この子どもたちを客としてしか見ず また 同時に この客に恐れて 自分たちが このやしろのお客さんになってしまうからである。新しい人びとに おまえたちも 同じように 山葛をつけなさいと主張する。この外形的なしるしの共同性によって 主体を保ちオモロを展開していくのだと錯覚する。山葛をつけよと言うのは ここで 古い同じしるしを外形的につけよと言うのではなく しるしとしては 言葉としては 新しいオモロをかれら自身 取り入れてまず つける。そうして 取り替えばやが完成すると 古い山葛は実質的に 保存されることになる。またそう錯覚するのである。これはすべて 韓招ぎ=崇り神の遷却の思想による。
だから 静かなるイヅモは 新しいスサノヲのオモロをまず受け止めた。国譲りをさえしたのである。落ち着くまで 時を使ってくださいと愛したのである。
ところが 黙っていない人びとが現われ出た。動揺――新しい動揺――はここから始まる。自分たちも きみたちのオモロは 持っているのだよ そのオモロの行き方で生活(共同自治)していけるのだよと言って見せることになる。そうしなければ 気がすまないのである。第二の態度すなわち ヒミコのヤマト連合派である。また かたわらで 別の国のスサノヲたちと その共同主観(連帯)性を――たとえ 山葛の外形によるものであれ―― 確認しようとする。
もし ここで 第四の態度があるとするなら それは カヅラキの独立派である。必ずしも イヅモのように 受け取るのでもなく また ヒミコのように 取り替えるのでもなく 古いオモロを固守する行き方。カヅラキが 必ずしも ヒミコのヤマトに取って代わって 連合派の盟主にもなろうとは しなかったとするなら この場合には 一種 古いオモロと新しいオモロとは 互いに住み分けよという考え方である。これは アイヌの行き方に近い。アイヌがしりぞくのに対して カヅラキは 踏みとどまって 同じ態度をつらぬく。


もし これらの三つの ないし 四つの態度が 全体として 必ずしもまだ衝突せず(――それは 一つに ヒミコ・トヨのヤマトが カヅラキに討ち取られたかも知れないという または モノノベ氏がソガ氏に滅ぼされるという ただ偶有的な事柄に起因する――) 目に見えないかたちで くすぶりつづけたとしたなら このオモロの内部的なくすぶりが それとして時の充満を持ったとも考えられる。構想としての動態 動態としての構想なる国家オモロの共同主観的成立を大前提として もう一度 このくすぶりの動揺が 新たな展開をとげようとするなら――しかしそれは 今度はひとりむしろタカマノハラ圏に限定されてあると言いうる―― たしかに 形態としての国家を持とうということに話が決まったかも知れない。あるいは まったく話(オモロ構造過程)としては 決まらなかった だから ひとえに暴力によって たかぶった気を静めなければならなかったかも知れぬ。
とまれ ここでミマキイリヒコ国家構想の共同主観制が さらに新しいヤシロ資本連関形態へと転化しつつ成ったとするなら この国家形態は 仮りのオモロ構造である。または 自分勝手に このタカマノハラへ アマアガリしたのである。その支えが かれらの支離滅裂なオモロ構造にとって あの静かなイヅモのオモロ動態にあったと言っても あながちの我田引水ではないだろう。タカマノハラ人は イヅモに甘えたのである。イヅモの愛が いちど 破綻したのである。ミマキイリヒコ共同主観は 死んだのである。
その証拠に この国家・《アマテラス(タカマノハラ)‐スサノヲ(トヨアシハラ)》連関形態が成ったあと オボツカグラ派が現われた。そのオモロ・カグラ歌には ミマキイリヒコ共同主観の譲歩また死とともに 同時にそれの復活をうたっているから。ないしは ノリトが遷却崇神と言うように 死を確認してうたわなければならなかったごとく 復活を予感していた。ここで 静かなるイヅモのよみがえりが 約束されたと言うことは 言わないほうが 神秘的であり非学問的であろう。
おそらく このノリトやカグラ歌のタカマノハラ主義は 独立派としてのカヅラキの筋から出たものであろう。すでに 形態としての国家の確立への動きには賛成し その上で やはりそれとして 独立派で行かなければならないと かれらは 踏んだのである。
これによって 《建国》の由来が語られた。もし言われているように 新しい第三のスサノヲが この日本を征服したのだとすると つまりオモロの動揺をとおして新しいヤシロ形態をさまざまに模索したというのではなく そうではなく 一挙に 征服して国家に君臨したのだとするなら カグラ派タカマノハラのオモロを わざわざ うたう(歌わせる)必要はなかった。建国の由来として書き記されることはあっても オモロとして歌う必要はない。なぜなら 征服とその支配は まずはじめの事実としてあったろうから。歴史を次つぎと経て わたしたちが征服者だなどと わざわざうたって――その意識の個人的な保守ではなく わざわざうたって――被征服民に聞かし その事実の自覚をうながすというのは どうであろう。
しかし 第三のスサノヲは たとえそのオモロとしてでも(観念の資本としては 征服したということ したがって) 勇躍もしくは暗躍したのである。すでに その人びとは同化していたが 出自はなお明らかにしていたであろうし しかも 一挙なる征服でなく 同化した同じ日本人として この形態としての国家形成にあずかったと考えられる。
また 同化した同じ日本人としてということを たとえば独立派カヅラキがうたったと思われる祝詞やカグラ歌が 明かしていることになるまいか。征服であったとするなら 妥協の征服であったろうし またむしろ 静かなるイヅモのミマキイリヒコ共同主観をその舞台として ここに甘えて 自分たちが単独タカマノハラビトとなることを勝ち得たのである。
問題は すべてが 日本人として この形態的な国家の定立へ向かった――すべての人が向かったのではなく それに赴いた人びとのすべては 日本人として そうした――ということが 第一点であろう。このときには この限りで 一挙なる征服・被征服は 問題ではなかった。それとも 征服は事実であり その支配の上に新しいオモロを強要し これのみが残って あとはすべて何もなかった――征服などということのかけらすら残らなかった――ように推移したのであろうか。


沖縄における王の出現とそのヤシロの征服は ほとんど原日本人という同一の人びとのあいだに起こった出来事である。それとして 新しい国家体制のもとのオモロをうたったが これは 同じ人びとの同じオモロ・せぢ連関を基盤としたぶんだけ 崩壊が早く起こった。

  • 島津氏の侵入後も 琉球王国は一応 王国のかたちで存続したにかかわらず またそれより以前に 聞こえ大君のオモロは 容易に早く古いものとなったのである。

ただ アマテラス‐スサノヲ体制じたいとしては 残ったのである。
日本では このアマテラス‐スサノヲ体制が残っただけではなく タカマノハラ・オモロが それとして なお 主張されつづけなければならなかった。

  • 聞こえ大君のオモロが 難解で別の世界の出来事であるようになったのに対して ノリト・カグラ歌などは 別の世界の出来事ではなく 地続きである。あった。

時に ふたたび くすぶるようになる・あるいは 人びとの意識からは遠ざかる時期が確かにあったとしても。つまり はじめの成り立ち 共同主観の大前提とそのあとの形態定立の大前提とが ともあれ 思われ続けた――そういうかたちで 思われ続けた――と言ったほうが ただしい。アマテラス市民政府および市民と 建国記念日靖国神社伊勢神宮とが 無縁ではない。または むしろ市民とは無縁なかたちで おもわれ続けたのかも知れない。
これは 征服説を 無意味とするであろう。または 無意味となったかたちの仮りに征服説の成立であろう。しかし 征服者をオモイつづけるのではなく その新しいスサノヲがやって来たとき かれらを受け容れ やしろ全体としてどういう処し方をもって 国家をつくったか その前提をオモイつづけてきたのである。それとも この前提をも 征服者がすべて作ったものなのであろうか。しかし もしそうであっても この前提は 国家の形態定立が はじめのヤシロ資本連関にかんする共同主観的出発の軌道上で繰り広げられたものであり 仮りのヤシロ形態であることを物語ることになりはしないであろうか。
はじめの共同主観的出発の想定が 仮りにまちがっており 時に征服者によってもたらされたものであるとしても 事に変わりはない。なぜなら かれらは われわれに同化したのであり その上で この前提をこしらえたのであるから。そうして すべてに譲歩しなければならないとすると 《日本人》は 第三のスサノヲの渡来によって その共存の段階で成立したのであり そのやしろ資本連関の成り立ちや仕組みのすべてが われわれに同化したかれらの手によって出来上がったとし いまでも かれらの血筋によらなければ やしろセヂ連関の主体となれないのだとすると 静かなイヅモは これをすべて受け止め すべてをかれらに任せばよいであろう。任すという明確な言表が われわれの復活なのである。
そのときには 任すという愛の運命共同体なのであり けれども やしろセヂ連関の推進力は 愛ではなかったか。かれらは 一任されなければ 愛の主体になりえないのであろうか。
この考え方に立つと どうしても 形態国家は 仮りのヤシロ形態としてもわれわれ日本人が ともに 共同主観したという想定を持たざるを得ないのである。征服・被征服を たといそうであったとしても そのときには無意味とするであろうし しなければならないであろう。
神皇正統記 (岩波文庫)》は言う。

大日本(おほやまと)は神の国なり。天つ祖(おや)始めて基を開き 日の神長く統を伝へ給ふ。我が国のみ この事あり。異朝にはその類ひなし。この故に神国と云ふなり。
北畠親房〔1293−1354〕:神皇正統記 (岩波文庫) 冒頭の部分)

この第二節があまりに長くなるので この議論を次節につごう。
(つづく→2006-10-11 - caguirofie061011)