caguirofie

哲学いろいろ

#10

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第一歌 弥に 弥 走れ ゑおい――序――

一 吾(あ)がおなり御神の
  守(まぶ)らてて おわちやむ
  やれ ゑけ
  綾蝶(あやはべる) 成りよわちへ
又 弟(おと)おなり御神の
  守らてて おわちやむ
  やれ ゑけ
  奇(く)せ蝶 成りよわちへ
(巻十三・965)

海のうえで 航く先に 蝶を見つけてうたったオモロであった。
《オモロは 意識の構造化を伴なう反復性を歌形として獲得しているという新しい発展的要素を作っている》(外間守善:〈おもろ概説〉三)ことは 《歌形として》だけではなく 《表現(外化)された歌の形式と内容とが スサノヲ語の発信であって 発信者のスサノヲ主体にとって 疎外されていない》とするなら

  • たしかに 疎外されていないのであって・つまり それが 原始呪術心性的でもあったが

この歌をとおして あたかも他者の共同主観にあっても・つまり 他者とのセヂ関係としても 《意識の構造化をともなう反復性を獲得している》とかんがえる。
この反復性は われわれの言葉では 発信者の意志ないし愛の――過程的な動態であるゆえ――滞留とよぼう。滞留は 他者との関係においてある。これを セヂ関係と呼びたい。これが スーパーヤシロに位置する聞こえ大君や按司添いの発するオモロ(託宣)を介するときには われわれの意識構造の内部でスサノヲ語とアマテラス語とが逆立して連関する構造を《獲得》したとしてもである。
つまり 後者のばあいには 二階が基礎となって逆立ちしているので ある種のやりきれなさを伴なうものである。しかも 伴ないつつも やはり セヂ関係としては 過程としての存在であるゆえ われわれの意志は この逆立ち構造において 滞留・寄留していればよいのである。現状に寄留するから 現状を変革できるのである。
言いかえると 《吾がおなり御神》と見た《綾はべる》に陶酔したり 神がかりしたりして これをアヘンとしないからこそ 意識の反復構造化 意志(愛)の滞留を獲得して 動態の中に生きる。

  • アヘンの反復・常習は いまだ やしろ資本連関に寄留していない場合である。寄留している・していないを考えるほどには かれ自身のオモロが 内面へ向き変えられていない。

ところが ギリシャ神話においても こころ・魂は 蝶のはねを持ったとたとえられる女性プシュケー( Psyche 《息》の意)であった。このプシュケーの学( psychology )が 心理学という名のオモロである。
わたしたちは 共同主観的なセヂ関係のヤシロロジを 心理学と呼ぶことに差し支えはないが 従来の意味でのそれと同一視することはできない。

  • 心理学は いわゆるフロイト精神分析によって 新しい展開をとげたと言いうる。これに一点のみ批判を加えるとするなら 不可視のせぢ関係を 単なる無意識の領域に押し込めたこと だからもう少し言いかえると せぢ関係は 無意識であった自己の領域に ゑけと言いつつ 動態を見出し主体的にすすむものであるのに 精神分析は 無意識の領域を立て これを あたかも人びとを背後で突き動かす別種の・科学と称する聞こえ大君アマテラシテとしてのように 全体的に セヂ関係をまつりあげる――共同観念アマテラス語化する――ことに《成功》してしまった このことである。無意識が万能のアマテラシテとなったかの感がある。
  • フロイトの理論は このような新たな《科学的》なオモロ構造の中で 人を 精神分析学者と患者と一般の潜在的患者というセヂ連関の中にとらえている限り われわれはこれを摂り得ない。《船子・手楫》をわれわれは 選ばなければならない。

われわれの心理学は 《守らてて おわちやむ やれ ゑけ》なのであって ここに《綾はべる》が 介入するのは それをとおして 自己を見るべき鏡ないしアマテラシテ(象徴)としての謎であるというにすぎない。この心理は たしかに《やれ ゑけ》と発語して 進行しているのであって この心理をわざわざ分析しつづけよということではない。分析した理論の体系的認識が――はじめにおいて セヂ関係をまつりあげているから―― その近代精神にとっては とうとい学に見えるのである。

ある国の王と王妃との間に三人の王女があり その末娘がつまりプシュケーと呼ばれるこの世ならぬ容色の姫であった。
その美しさの評判があまりにも高く 女神ウェヌス(アプロディテ)をさえ凌ぐほどになったので 女神は大いに怒りを発して息子のクピドー(エロース)に言いつけ 姫を世界で一番下劣下賎な男と結婚させようとする。ところが矢を執って天界から射ようと構えた隙に ついうっかりとクピドーは その矢じりで親指を傷つけてしまった。それで彼は逆に プシュケーその人に対して断ち難い愛着を抱くようになったのであった。
いっぽう姫のほうは 誰も婿がねになり手がないので 両親が神託をうかがうと花嫁衣裳を着せて山の上に置けということであった。この世の中でいちばん恐ろしい神々をさえ怖れさせるものがその婿になろう というので 悲嘆にくれながら神託のとおりにする。涙にくれていつともなく寝入った姫を 山の上から西風がそっと麓の谷あいの 花が咲き乱れる草原に抱きおろす そこにはクピドーの 世をしのぶ宮殿があった。
金色燦然たる宮づくりに侍女は一人も居ず 形のない声が案内をし給仕をする。夜になると誰か姿の見えぬ男が来て寝台に上り 姫と語らいあう。勿論これがエロース(クピドー)だが 姫は次第に このけっして自分の姿を見てはならぬという男に対し 愛と共に激しい疑念をもちはじめる。しかし姫の願いは 彼によって何によらずみな聞き届けられる。その二人の姉たちも この宮殿に招かれるが 妹の途方もない豪華な生活ぶりを見て 死ぬほどの嫉みに捉えられる。その揚げ句に 妹を唆して その男は大蛇に違いないから今に取って喰われるといい 夫の殺害を企てさす。
ところが 忍び足に 燭台を取り剃刀を逆手に窺い寄った寝台に彼女が見たのは よにも美しいエロースが金髪を燭台の光にかがやかせて やさしくふくよかに寝(やすら)っている姿だった。プシュケーはその愛しさに思わず深のぞきをして 燭台の爉をエロースの肩に滴らす。火傷の痛みで彼は目覚めるとこの有りさまに すっかり立腹してプシュケーを罵り 翔けり去ってしまう。
これから彼女の苦難の遍歴が始まる。さまざまの苦労艱難をつんだあげく 彼女は エロースの母であるウェヌス(ヴィーナス)女神を訪ね 女神から烈しい侮辱と虐待とを与えられ その上にもいくつもの試練を課せられる。例えば穀類の山を選り分けること 生命の泉の水を汲んでくること 冥界へ赴って女王ペルセポネーから《美》を容れた小筐を貰ってくることなどである。
あるいは無数の蟻の あるいはかつてゼウスの愛を援けた鷲の助力でもって 前の二つの課題を彼女は果たすことができた。第三のも ようやく身を投げようとした川岸の塔に教えられて冥土にゆき 筐を開くと 昏迷の霧が立ち上り 彼女は倒れ伏す。ちょうどそこへ傷の癒えたエロースが翔って来て彼女を伴ない ゼウス大神に訴えて その仲裁で天上の神々からも 母の女神からも許しを与えられ めでたく婚礼の宴を天上に開く。やがて妊娠していた彼女は つき満ちて娘の《喜び Voluptas 》を産み落とすというのである。
(呉茂一:ギリシャ神話――アプレーユス《黄金のろば》の中の〈愛(エロース)と こころ(プシュケー)の物語〉の梗概)

ヘレニスム(ただし アプレーユスは 紀元二世紀のアフリカのローマ人である)のうたと いまのオモロとに 符合があると言おうとするのではない。
綾はべるをとおして今捉えたセヂ関係が おなり御神と言うように 性としての共同主観でもあるなら ヘレニスムの同じゑけりの関係について――蝶の符合のもとに――参照できるかと思う。

  • いまでは 一般に言うばあい この おなり‐ゑけり関係を もともとの姉妹‐兄弟のそれではなく 女と男との関係というような意味で使っていくことにする。

《奇せはべる 成りよわちへ 守らてて おわちやむ やれ ゑけ》と セヂ関係を捉えているなら 《愛(エロース)と こころ(プシュケー)の物語》という――ある意味で原始心性の構造・動態的なオモロなる――プシコロジ(サイコロジー)に おぼれるようにして浸ることなく またこの精神を分析して いわゆる正常と異常とに分類し ただその大前提でもあるかのごとき与件のもとに いま在るセヂ関係(資本連関のことだが)に 正常に順応し かつ不適応ないし異常はこれを何としてでも正常に戻すなどという作業をとるのでもなく その神話を 用いるべきは用いて すすむというに過ぎない。
エロースを 無意識領域のリビドーとし あるいは たしかに こころが人間にとって大事なのだとか それが正常なのだとか説いたところで 共同主観は 発進しないのである。《わたし》は 何に対して 《ゑけ》を発したか これのみが セヂ関係の動態を確立させてゆく。
もし 《吾がおなり御神の・・・ゑけ》(965)が もう一歩踏み込んで わが主観を発していなかったとするなら それは 原始心性であり いわば 時代的な制約のもとに いまだ スサノヲ共同体的心情 集団的心理をそのままわが主観となして このオモロをうたったことになる。おそらく そうであろう。そうして 新しいセヂ関係の動態 主観の共同的構造 これについては 現代にも通用するその原形式を表現したと考えたのである。
ところが 現代のキャピタリスムやしろ資本連関の中で 人は すでに独立・自由な主観を獲得したとするなら そのもとに この原形式としての共同主観が迎えられ――アマテラス語理論であるプシコロジとしてであれ プシュケーの物語(オモロ)は迎えられ 所を得ている―― すでにわたしたちは 原理的に このキャピタリスムの時代にそのキャピタリスム(はじめのスサノヲイスムが アマテラス語共同観念となったもの)に勝利したと言ってもよいのではないだろうか。勝利しつつあると。
新しいセヂ関係の動態の確立は 共同主観ヤシロロジなる学であるが それは 愛(意志)の勝利である。そのようなオモロの歴史的な変遷・進展が 見とおせる・ここにわたしたちは すでにはしゃぎすぎたとしてもよい。わたしたちは 気の狂ったように言うのであるが こううたおう。

一 弥(や)に 弥 走(は)れ ゑおい
  ちょろめへ ゑい
  やうら やうら やうらへ ゑおい
  やうら やうら やうらあ ゑおい
  やうら やうら やうら ゑおい
  やうら やうら やうら
  あゑい ゑおい
又 弥に 弥 走れ ゑおい
  ちょろめへ ゑい
  やうら やうら やうら ゑおい
  やうら やうら ゑおい
  やうら やうら やうら
  あゑい ゑおい
又 弥に 弥 走れ ゑおい
  ちょろめへ ゑい
  やうらや やうら やうら ゑおい
  やうら やうら やうら ゑおい
  やうら やうら やうら
  あゑい ゑおい
(巻十二・728)

(つづく→2006-09-28 - caguirofie060928)