caguirofie

哲学いろいろ

#8

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第七節b 見えない《せぢ》関係をとおして 自己を了解する

これらを――ここでは―― 男の女に対する関係の いわば前史から後史へ(――言いかえると ヘーゲルの一面としての 国家論から民主制へ――)の変遷にたとえて 捉えようというのである。
言いかえると せぢの関係が ヘーゲルの場合 国家へのアマアガリとして上昇・拡大するのに対して 今度は そこから 民主制としてのスサノヲイスムへの下降そして主体化が見通され そのような回転の過程へ移ることである。回転の前の段階から すでに 動態として動き出していると捉えられる。
図式的に言うと 《ゑ け あがる三日月や》(534)《ゑ け 上がる辺のみづかわ》(531)のスサノヲ語が ここに復位すると察せられる。これは 両性の平等 新しいせぢ関係の動態だと考えられるのである。

  • 観念的に ここまで――不可視のせぢ連関だから 観念的につまり思弁的に ここまで――言えるし これも 経済学のことば(人間の知解行為)だと言おうと思うのである。

植民地の問題(いわゆる南北問題)や観念の資本制の残像(そのさまざまな形の母斑)の問題など その経済学的な分析とともに 政治経済学的な施策を与えなければならないが 次のように オモロ(思惟)としてもまず 表現を与えていなければならないことのように思われる。またそれは 現実的には 性関係の問題として――だから 人間の協働関係における現実の課題として―― けっして観念に終わらない(終わらせられない)領域があると捉えられたである。
《民主制は 人間から出発して国家を 客体化された人間たらしめる》という政治経済学的なオモロを 観念の資本の観点から 《スサノヲイスム(スサノヲ語の正しい復位)は 人間(自己 したがって 単なる主観でもよい)から出発して やしろ資本連関を 対象化しつつ 人間の新しいせぢ関係の動態過程とすることができる》と言いかえることが 可能である。
これは 貨幣価値的な関係に たしかに 還元されざる領域を言っており しかるがゆえに 貨幣評価的な領域に このせぢ関係が 正当にも 進出してゆくであろうと言ってよい。これが 共同主観のオモロである。なんなら コミュニスムでもよい。また スサノヲシャフトが やしろの基盤であるから スサノヲイスムは ヤシロイスムである。
このとき 《船子・手楫 選で 乗せて》航行しなければならない。《選で 乗せる》ゆえ 女性を――せぢ関係が 犠牲にされて来たことは 性としては 女である人が犠牲にされたと考えられる―― この船の乗組員として排除しないと言おうとしていた。選ばないで乗せている=植民地として遇して選ばないでいると 両性の平等というアマテラス語の標語(憲法にもうたわれた)が 観念的なオモロとなって いくらかの聞こえ大君や按司添いたち(アマテラス語理論家たち)によって 託宣され この託宣につき従いつつ われわれは その母斑の海に浮き沈みして泳いで渡ることを余儀なくされる。
植民地にも自由があるから この泳ぎは 《理性》によって独立しておこなわれる自由なものであるが それは 奴隷の自由である。観念的に《主体化された国家》における一国一城の主である者として 右へならえの自由だと考えられた。アマテラス語のオモロが すでに 歌詞つまりオモロを決めているか もしくは その枠組みとしての旋律を決めているかであるからだ。上昇・拡大の方向一本のみだから。《上がる辺のみづかわ》に ゑけと言ってことばを発するのではなく 《聞こえおわもりらの託宣に従って 島世 討ち取りよわる》ことに対して ゑ けと そらぞらしい死んだスサノヲ語を発するその人間の自由だからである。
だから われわれは《選ぶ》のであるが それは もし はじめにすべてのスサノヲを選んでいる(つまり 選り分けていない)のでないなら 船の航く先々の事象に ゑけと言って スサノヲ語を発することができるであろうか。この新しい共同主観としてのせぢ関係は 旧い母斑としてのそれを容れて あるいは それと紙一重の距離を保ち これを主導しつつ進む生きた動態であると 過去のオモロの吟味の将来への向き変えとして すでに言いうると思う。

一 吾(あ)がおなり御神(みかみ)の
  守(まぶ)らてて おわちやむ
  やれ ゑけ
又 弟(おと)おなり御神の
又 綾蝶(あやはべる) 成りよわちへ
又 奇(く)せ蝶 成りよわちへ
(巻十三〔船ゑとのおもろ御さうし〕・965)

おもろの言うところは 《わがおなり神――そのせぢ――が 我れを守ろうとて 来ませり(おわしてあり)。やれ ゑけ。美しい蝶に成りたまいて》である。
これは 明らかに原始心性をあらわしており――つまり これも 《船ゑとのおもろ》 であって 発話者は 基本的に言って 航行する海の上にいる そのときの《ゑけ》の別の一つの例である―― そうすると このようなもはやアニミスムにわれわれは属(つ)いて行けないかと言うと そうではなく このおもろの心は もっと別のところにある。その話題で この節の前半の議論を継いでおかねばならない。
問題は 《せぢ》をどう捉えるか せぢを捉えてうたったオモロをどう捉えるか であろう。
《私は セヂをスヂ(筋)に由来すると考えたい》とする西郷信綱は 次のように見る。すなわち この965番のおもろに関して。

これは・・・《船ゑと》にぞくするものだが 妹の霊が蝶と化して船路を守るという世にも美しい歌である。蝶や蜂や鳥や蝙蝠 これらはほぼ世界的に soul-animal と信じられている。それは これら動物のひらひらと飛ぶ動きに 出で入る息のリズムを思わせるものがあるからに違いない。
さて沖縄では 魂のことを マブイ( mabui )という。この語は マムイ( mamui 守り)と関係がある。つまり マブイ(魂)は人を守る力である。そして家の姉妹(おなり)は 特殊なマブイを持っており これが兄弟(ゑけり)の守護霊として働くのを セヂと称するのではなかろうか。
私は セヂはスヂ(筋)に由来すると考えたい。さきに引いた琉歌

  • これは 有名な

御船の高艫(たかとも)に 白鳥や居ちよん
白鳥やあらぬ おみなりおすじ
(船の高艫に白い鳥が止まっている。白鳥ではない 姉妹の生き御魂だ。)

の最終行にも《おみなりおすじ》とある。伊波普猷訳は これを《妹の生き御魂》とし 《評音評釈琉歌全集》(島袋正敏・翁長俊郎)は 《妹の霊神》としているが 何れにせよ これがオナリ神である。
西郷信綱:〈オモロの世界〉六 外間守善校正注釈《おもろさうし》解説)

  • なお 《琉歌》とは 琉球王国のおもろの世界に代わって発生したもので 三味線(これが伝来してきたことにも伴なう)に乗せてうたわれる・八八八六の三十音から成る定型短歌である。
  • さらになお マブイとマムイとの対応は / b /と / m /との互換性について 蛇=ハブ・ウハ‐バミ・ヘミ・ヘビの例がある。守りの/ r /音の脱落( y 音化)は あらゆる←有らるる・所謂(いはゆる)←言はるるなどに同じ。

《セヂが スヂ(筋)に由来する》ということは もしそうだとしたなら 各家の主婦が仕える祖先神としてのセヂ(第二節 構図)の問題でもある。血スヂの問題だということである。この点を措く。
しかし わたしは これらの認識は 順序が逆であろうと思っている。《蝶や鳥やらが 魂のアマテラシテ(象徴)たる動物と信じられるのは それらの動物のひらひらと飛ぶ動きに 出で入る息のリズムを思わせるものがあるから》ではなく 自己のせぢ・つまり自己を了解しうる瞬間に人間が 《三日月》にしろ《蝶や鳥》にしろ それらをとおして・それらの表現を媒介として 《ゑけ》とスサノヲ語を発したことにもとづくものであろう。
《ひらひらと飛ぶ動きが 息の出で入るリズムを思わせるものがある》等々といったことは はじめのスサノヲ語表現の客観アマテラス語による一つの解説を思わせるものがある。言いかえると 順序が逆であろうし また 人間の持つ《客観性》とは 本質的にこの程度だと思ったほうがよい。

  • 貨幣数値的に 客観的・普遍的であることでさえ――逆説的に捉えるなら―― 本質=人間の存在にかかわると考えられなくはない。もし客観性というならばである。
  • むろん だから このこと・つまりスサノヲ語が最初だという順序のことは 数学・物理学等のアマテラス語科学の真実を 排除するためではなく また他方で スサノヲ語と言うからといって 主観の好みに妥協して合わせるためでもなく そうではなく 総じて 人間の真実として捉え 用いるためである。

ならば 《セヂがスヂ(筋)に由来する》の見解は わたくしも――おもろの構図にもとづくかぎりで――これを支持したいのであるが しかしそのときにも それは 語源的にそうだということであり スヂ(祖先霊)がそのまま実体として セヂなのだとは 認め難い。セヂ・つまり自己(――関係の中の自己・・・《汝自身を知れ》――)が このときにも スヂ(第一次的には 血統である)をとおして 了解されようとしたことを意味することはあっても この祖先霊・血筋なるなおアマテラス語概念に自己が束縛されるようにして ましてや呪縛されるようにして 制約されることを意味しない。
このとき なお せぢは 不可視の霊力なのであり 近代理性にとっても たとえば自己の存在する場のやしろ資本連関なる推進力といった言葉で表現されうるとは思われ それが 言葉として語源的には 《筋》から来たというだけのことと考えたい。

  • すじを通すといったようなときの見えざる力のことである。自分の力であると同時に 自己を超えた力でもあろう。もちろん 人間どうしの関係としても そこに この力が あたかも働くとわれわれは見ている。

日本語で 《すぢ(筋・条)》とは 《筋肉の中の強い繊維。転じて 細長くひと続きに通っているもの。人の血統・家系・性分・芸風から 一般的な筋道・方向・宿命などの意》(大野晋)だという。人は そこに生活する・共同自治するところのやしろ資本連関の 見えない部分(その力また関係など)を捉え表わすのに この《すぢ》または《せぢ》の語を用いたのであろう。

  • はじめの《筋肉》は そのものとして 目に見える。ないし 可感的に了解されうる。

原始心性は わづかに 三日月や蝶を見て またそれらを通して このせぢを そしてつまりは やしろにおける自己を 了解し うたったのである。しかしながら 三日月が神であったり 蝶が人間の究極の霊魂であったりするなどと言ったら それは 原始心性そのものである。

  • いや 原始心性さえ そのようには考えていなかったかも知れない。ゆえに 信仰の度合いが強いのである。いちいち 理性のアマテラス語を通して捉えた場合には 信仰として弱いだけでなく 時には 原始心性よりも 退化してしまいうる。

さらに しかしながら 《ありきゑとのおもろ・その531・534番》や《船ゑとのおもろ・その965番》は 表現形式としては 旧い原始心性ながら スサノヲ語の共同主観としてのセヂの認識においては 人間=やしろ資本主体つまり自己を捉えたのである。少なくとも いわゆる即時的かつ対自的な自己認識の原点をうたった痕跡がある。
次節において この第一章を締めくくりたいと思う。
(つづく→2006-09-26 - caguirofie060926)