caguirofie

哲学いろいろ

#6

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第六節 霊的な共同主観としての《せぢ》関係

個人の利己的な本能も 共同観念的なナシオナリスムといったオモロも 肉の眼では見えず 内なる眼でとらえるしかない。本能やナシオナリスティックな観念は 時にはっきりした行動となって現われるから この見える・かたちある行動をとおして所在を突き止めやすく しかししかも内なる眼でとらえるしかない。
せぢの問題など存在しないと言われれば せぢの問題など存在しないというせぢの問題がそこにはあると問い返しても始まらないかも知れない。おもろの世界としてのヤシロ情況と時代は去ったが それを おなりとゑけりとの関係として捉えるかどうかを別として 女と男との関係は それにかかわりなく つづく。これを ともあれ せぢといった用語と観点から(――その基礎の一般を ヤシロ資本連関としたのだが――)捉えておこうという趣旨である。
せぢは 不可視の霊力であるから――と言っても 男と女との関係について その互いの吸引と反撥的な吸引と好きでも嫌いでもない中性の気持ちがあり これらは 見えないものだから とりあえず せぢの語を用い また ふるくからの言葉をもって言うと 不可視の霊力であるから―― 思いとその発語そして表現されたものとしてのおもろ これらが いかに生じどのように過程されるか このあたりから考察を始めることができる。
言いかえると 性の関係にかぎらず人間のヤシロ的な諸連関としての主観の共同性(また 協働行為性) これを考察することを 一つの目的としたのだが それを 前節では まず 関係の中にあっても 一個の独立主観は保たれているであろうから この観点・そのあり方を――結果的には まだ きわめて あいまいな表現においてだが―― 取り上げて 全体の考察に着手した。
そこで見たことをなお復習するなら 次のようである。
独立主観は 共同主観主体であってこそ つまり せぢ関係を不当にころさないからこそ むしろ 不可視のせぢのあり方を 見えるモノや現象をとおして捉えることができる。そして 表現としては せぢの根源とも言うべき神なら神(つまり むろん 自己)をうたうことが起きる。ここでの表現としては 《うたう もしくは おもろ》と言うことにしたが このせぢ関係のことが 一般には思想・生活態度として あり得るということ。

  • 神なら神と言ったところは むろん 第一質料でもよい。ただし これも 目に見える質料でありつつ 目に見えない根源のもの(いわゆる物質)として想定されていたはずだ。

人は せぢを見たのではない。神を 自己を 実体として捉えたのではない。けれども 《ゑけ あがる三日月や / ゑけ 神ぎや かな真弓》(534番)と表現してうたったのである。目に見えるのは ここでは さらに個別の物体として 三日月や天体しかない。
《あれだよ あれ》と言って語りあうとき この《あれ》は 目に見えるものであるかも知れない。ただそれは 話し手と相手との共同主観の中に存在するもの・存在しようとするものである。むろん 目に見えない観念・概念が この《あれ》になりうる。《あれ〜〜ぇっ》と言って悲鳴を上げるとき それは 得体の知れないもの・目に見えない何かを――実は そこに目に見えて存在する具体的な何か(また行為であれ)を介して―― 言い当てようとして 発した言葉である。
おもろ(534番)の航海者は 《三日月》のあがっているのを見て 《あれ(ゑ け)》とことばを発したのである。《赤星や群れ星やのち雲》を見て 同じおもいの生じるのを内に捉え これを――表現じょう―― うたった。かれは せぢ関係から不当に離れていなかったから となりに人がいる場合であろうと いなかろうと 独立主観の共同主観性を そこに見た天体をとおして《神ぎや かな真弓 / 神ぎや かな細矢・・・》と表現していったのである。
せぢそのもの 神なる実体 自己そのものを見たわけではない。しかし 《あれ》と発したのである。あたかも 自己還帰してのように。
自己到来するというのは 目に見えない。むしろ 言うとすれば せぢ関係の問題である。
《ゑ( Wow ! ) け( ¡Qué bonito ! )》と発した。これは 人間の共同性・連帯性の産物である。性の関係も おなじであると思う。霊的な婦人の共有――。歴史の共同相続人として女性を排除しない。
このような《ゑ け あがる三日月や / ゑ け 神ぎや かな真弓・・・》といった言葉 これを われわれは スサノヲ語とよぶことにしよう。したがって このうたの 宗教としての・共同観念としての神の信仰 そのオモロに用いられる言葉は 一般に アマテラス語である。むろん もともとアマテラス語は 《あがる》とか《三日月》とか《神》とかのように すべて 一応 ことばとして抽象化させ普遍共同のものとして用いあうその概念を言うのであるが。
このようなスサノヲ語(だから 共同主観的な独立主観のことば――それは すでに アマテラス語となっているものをも用いる――)と基盤を同じくしつつ これを 共同の観念に引き上げるようなせぢの発語――《聞得大君ぎや 降れて 遊びよわれば 天が下 平らげて ちよわれ》(1番)―― つまり言いかえると せぢ関係の対象化の中から言葉が発せられるのではなく むしろ 或るせぢ関係を人工的に作り出すようにして・だから 基盤たる初めのせぢ関係を真似つつ それに蔽いをかぶせるようにして うたわれるオモロ これは アマテラス語共同観念である。純粋な(?)客観語とは これだと言うことになる。
第一次的なせぢ関係を対象化して捉えたその観念の中から その観念そのものとなってのように この観念の共同化をねらうオモロ それは 公民アマテラス性のみの――独立ではなく――分立であるから。まず とっかかりとしてであっても 初めのせぢ関係を殺して そう発言するのが あたかも本質をなすということになる。
王アマテラスにとって 聞こえ大君は そのかれのおなり神であり 《鳴響む精高子(せぢ霊力のゆたかな人)》であるから この両者の互いに個人的なせぢ関係は 実際にも確かにその基盤にそれとして存在するであろう。しかし 《天が下が平らぐ》のは 王にとってのおなり神である聞こえ大君が《遊びよわる》ことによってかどうかは 一概に決まらない。そうなれと祈り そうなれと欲し またそうせよと言うのが 観念の資本制であり このアマテラス語共同観念は 共同幻想・しんきろう閣でありうるとすでに 考えられた。順序が逆であろうと。ふつうにスサノヲ語において 平らかなれと発することを基礎とし力として努めた結果 平らぐという認識を アマテラス語において持つ。
むろんアマテラス人も 基本的には個人として そのように生きているとも考えられる。スサノヲ語がはじめだという順序でである。ただ やしろ全体のこととなると 別だとも考えられる。
つまりそれは ヤシロにおいて《まつり》のおもろを発するのではなく スーパーヤシロにおいて《まつりごと》のオモロを発するときには そのスーパーヤシロなる二階からまさに発せられ すでにスサノヲ生活圏から分離分立してしまったあとだからである。ナシオナルな観念の資本の《国民総生産》なるアマテラス語は スサノヲ語とは別のものであり スサノヲ語の《生産》の幾何学的な総和でも ほんとうはない。スサノヲ語のやしろ的な総和の共同自治のために考え出された社会科学というオモロの一手段である。


しかしながら 共同主観者のスサノヲ語も むしろ アマテラス語(その概念・その科学性・客観性)を用いていなければならない。
聞こえ大君のおもろが そのアマテラス語が 或る客観性・或る普遍性を持たなかったわけではなく またそのヤシロの情況と時代とに応じて 共同自治の一手段とされたものである。いまでは 充分に旧い原始心性の中のそれであると 認識され尽くしているのだが と同時に スサノヲ市民のスサノヲ語のおもろ(思惟)も その共同主観として 認識の問題としてよりも アマテラス語共同観念をむしろ突き破るちからとして発せられていることでなければならない。この力は せぢ関係の動態であると考えられる。
これが 当然のことであるとしたなら 同じく当然のごとく スサノヲ語は この過程を 時代とともに その表現形式を変えて 発せられるものでなくてはならない。

  • スサノヲ語ということ自体が 歴史的な動態過程そのものであるだろう。またそこで そのまま アマテラス語の能力を持っている。

ところが 三日月や天体を見て 神ということばを引き出すことは この神の語が通用したとするその限りで――言いかえると 人は すべての人を納得させるように 表現していることは出来ない相談だとするその限りで―― われわれは そこに 共同主観の歴史的な系譜を見ることは 可能である。《神の語が通用したとするその限りで》というのは 《人は すべての人を納得させるように 表現していることは出来ない相談だとするその限りで》という意味である。――逆に このことを 新しいアマテラス語を用いて 表現してすすむことが わたしたちの課題だということになる。

  • 言いかえると 現代の視点に立つために ここまで遡ることは 可能であり また 有効なのではないかと。

逆に言うと 近代精神は その合理主義的な理性によって このアマテラス語を洗練し科学化し 客観概念性やまた一個のヤシロを超えた普遍性を拾いあげ 余分なものと思ったものは切り捨てて すすんできたのかも知れない。(普遍性といっても それは もとからあったもので その発見・認識が生まれただけかも知れない。)そして 時に反省が加えられている側面に注目するなら せぢ関係のないスーパーせぢ(脱せぢ・超せぢ)として アマテラス語客観概念を 一つの別のオモロ世界としてのように 暗黙のうちに・時に はからずして 作りあげてしまった とは言いうる。客観・普遍であるなら そのようにセヂということばを用いずとも スサノヲ人間語にも 原型的な原始心性の核にも 通じているはずである。 
したがって アマテラス圏( Amaterasutum )=スーパーヤシロが スサノヲ圏( Susanowoschaft )と連関して 一個のやしろを築き そのやしろにおける役割としては むしろスサノヲ共同体の発展のためにあるとするなら――実態はどうであれ 公民アマテラスは 公僕であると言われた また 憲法は 主権が市民スサノヲにあるとうたった―― このたとえば 憲法なるオモロは これをそのアマテラス語を 観念共同するのではなく 主観共同のために用いるという視点(これも せぢ関係である)が 受け止められ消化されて行くのでなければならない。主観共同のためにそのオモロが叫ばれるというのは なおアマテラス語の領域である。そのあと――あるいは その前に―― 《ゑ け なになに・・・》と言ってのように やしろ資本主体は やしろ資本主体なる自己を うんうんと押してすすむのである。
このために ――あたかも未来社会を先取りするのではなく(そうすると また その未来のせぢ関係の青写真が 共同観念アマテラス語となっている)――むしろ 後ろ向きに前へ進むのである。このために 観念の資本の遺産の一つである《おもろさうし》を 吟味してすすむことは 無駄ではない。
なぜなら せぢ関係は 現在という時間過程にしかなく 現在は過去から出たものであるから。そのとき 未来のやしろ諸連関のいくつかの青写真が捉え出されてくるかも知れない。現在という動態の中へおさめているべき一個の意志である。意志が 現在のものである。

  • また そのような知解行為の前提である。

まさに来たるべきという将来のであるならば それは すでに現在という動態のなかに入って 過程されつつあるであろう。この意味で 過去の時間であるおもろさうしの世界をなお吟味することに ここでは スサノヲの共同主観アマテラス化(そうしてスサノヲやしろ資本主体となる)の作業を問い求めていくことができる。

  • この点は ここで 従来の意味での学問的な・あるいは評論としての研究ではないので ひとこと おことわりしたものである。


なお 霊的な婦人の共有とか 歴史の共同相続人に女性を排除しないと述べたが ひとつのクレームがついた。それは これが 男性優位の――支配のでなくとも――観点から述べているのではないかというものであった。
そうである。と言わなければなるまい。
ところが せぢ関係の原始心性から近代精神への移行 あるいは その総合的な新しい動態の問い求めということは たとえば 根拠にならないかも知れないが おなり神が主張されていたように 或いは主婦こでが ひとりの基軸であったように 或る女性的なものであり ちからであると考える。新しい変化 その問い求めは 女性的なものであると考える。特にその知恵の要素についてである。

  • 《せぢ関係の動態のちからが 女性的なものである》と言ったのであって 《女性は 本質的に 精神的な存在である》というふうに議論を吹っかけているのではない。

霊的な共同主観というのは そういうちからに支えられて――そして 近代ブルジョア精神は その女性的な力を 犠牲にしてきたと考えられた―― 成立し確立してゆくものであると思われた。そうして せぢ関係は 兄弟・姉妹の関係というよりも 夫と妻との共同主観を 第一の基礎(動因)とするであろう。というふうにも思われた。
これを広く 霊的な婦人の共有と表現する。表現は すでに旧いかもしれない。
クレームに答えたことにはならないが やしろ資本連関は むろん 男にしろ女にしろ 互いに同等なかたちで 一個の夫婦の共同主観が ひとつのヤシロ的な精神の職務をになってのように 生き動き存在して はたらくものであると思う。ここに 性としては女である人を排除しないと言うこともできるし また ここには 男も女もないと表現することもできるということではないだろうか。
《人間一般》という一つのアマテラス語に立って 《男女両性の平等》 あるいは ジェンダーとして人間の性としてその存在を経済学するとうたうことは 一つの出発点ではあっても まだ何も事は始まらないのではないだろうか。原始心性において 男女平等というオモロによって ばくぜんとこれを観念し ばくぜんとその共同観念に付き従うなら わたしたちは それではと言うので セックスをジェンダーのみに代えて アマテラス語理論を衣替えするというのでもないから そうではないから それらに対して時に 霊的な婦人の共有と言って 男女平等を語る。ということだと思う。女性解放( women's liberation )と言っても それは せぢ関係の外へ出て行ってしまうことではあるまい。男が女を あるいは 女が男を やしろ資本主体としてではなく お客さん扱いするようにして やしろの外へ出て行ってしまうことではあるまい。お客さん扱いというのは 一般に――それは エチケットのためということでもあるが―― やはりアマテラス観念語の領域である。
これらのこと(力)は むしろ女性的なものであるかも知れない。時間(動態)を管理する理性は 女性的なものであるから そのありうべき姿を 霊的な共同主観と言って 男が受け取り男の側から語る。

  • 女性の共同主観者も 語るとしたら 同じくそのようなかたちで・つまり あたかも男であるかのように 語るであろう。ウーマン・リブには 女性を解放したいのか 追放したいのか つまり 男性をやしろ資本連関から追放したいのか わからないところがある。そう感じる。また 玉野井芳郎の議論は 霊的な共同主観でない男と女の・しかも 性の関係 つまり 原始心性のせぢ関係に ふたをしてしまうための近代理性のアマテラス語理論を どうにかして衣替えさせようという試みである。と断定しておくことができよう。

(つづく→2006-09-24 - caguirofie060924)