caguirofie

哲学いろいろ

#1

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本の推進力について

第一節 ここでのヤシロロジの方法について

一 聞得大君(きこゑおおぎみ)ぎや
  降(お)れて 遊(あす)びよわれば
  天(てに)が下 平らげて
  ちよわれ
  首里杜(しょりもり)ぐすく
又 鳴響(とよ)む精高子(せだかこ)が
  降れて 遊びよわれば
  天が下 平らげて
  ちよわれ
  真玉杜(まだまもり)ぐすく
(巻一・1番)

 
おもろさうし (上) (岩波文庫)

おもろさうし (上) (岩波文庫)

 おもろさうし〈下〉 (岩波文庫)

神が天上から降りて(《降れて》) 神女が(《聞得大君ぎや》) おもろを謡い舞いたまえば(《遊びよわれば》) 王は 天下を治めて居たまえ(《天が下 平らげて ちよわれ》》と言うのである。《ぐすく》は その聖所をあらわす。
しかし たとえば《古事記 (岩波文庫)》では 

ここに〔アマテラスオホミカミは〕 アマツヒコホノニニギノミコトに詔(の)りたまひて 天(あま)の石位(いはくら)を離れ 天の八重たな雲を押し分けて 稜威(いつ)の道(ち)別(わ)き道別きて 天の浮き橋にうきじまり そり立たして 筑紫の日向(ひむか)の高千穂のくじふる嶺(たけ)に天降(あも)りまさしめたまひき。
古事記 (岩波文庫) 上つ巻 アマツヒコホノニニギの降臨の条り)

どちらも 人間の社会的な 原始心性をあらわしている。原始のでなくとも ふるい社会学(共同自治の方式)である。当時の人びとのことばで 《かみ》がこの地上に降りてくるという。そういう表現をしている。
もし 原始心性(人間の自然的な心性)が 消えてなくなるべきものではなく 一般に人間の社会的・歴史的な発展とともに 高いところに揚げて保存されつつ 生きられるものであるとするならば このような観念の資本(うた)は 今に われわれが 考察をあたえるべき遺産である。
人間(われわれは これを スサノヲと呼ぼう)の自然人としてのわたくしが アマテラスとなって つまり社会的に成長してアマテラス化しつつ 社会人としての幅と深さを持った市民(つまり そういうスサノヲ)となることが かれのひとつの歴史であるとするならば その前史ともいうべき原始心性に対しては 新しい認識をあたえてこれを保っているはずである。もしくは 化石となってよいものならば 棄てているはずである。
かれが この意味で ふるい歴史を書き替えつつ生きると言われるとき 現実の社会的な資本関連についても然ることながら うた(神話・共同の観念)なる資本についても 社会学していなければならない。うたの構造としての観念の資本も 現実の資材としての資本も 要は 人間と人間との関係をあらわしている。

  • それは 現実の経済的な資本連関の書き換えの後か先かが 争われるであろうが ここでは 詳しい議論を端折って そのあとさきに関係しないという意識でいる。同時進行の過程にあると言いかえることもできる。

われわれのここで為すべき社会学 これを まず ヤシロロジ Yasirologie と呼ぶことにする。つまり 社会を ヤシロ Yasiro と呼ぶことにしよう。
したがってわたしたちは 原始心性を問題とする限りで 神と神女(聞こえ大君)と王とそして一般市民から成る《天が下》としてのヤシロ(その人間関係の総体)を 考察することができる。あるいは このヤシロに アマテラスオホミカミの命(めい)を受けたホノニニギノミコトが《天降り》したときの・また した後の市民関係を 現代の視点に立って 論議することができる。うたを 中心として 観念の資本の視点から(もしくは その観点じたいを)とらえようとすることになる。
またさらに 逆に このヤシロロジの立ち場を積極的に打ち出そうとするぶんには この場合 うたが 人びとの仕事の協働関係なる市民資本であり社会資本である。《王が 天が下 平らげて ちよわる》ヤシロに 生産行為もしくは生活がないわけではない。
観念の資本分析は したがって 観念的に 市民の協働関係を考察することになるのだが 表現行為としては 経済学的分析も 観念的な考察なのである。この議論を長く継ぐつもりはないが 考えている前提としては 一般にヤシロロジにおける市民生活に 《経済的な利害関係》と《人間の思惟・内省=生産・行為の形式としてのエートス》との二つの領域が存在するとは見ないということにある。経済的な利害関係に対処する人びとの考え方が うたの共同 観念の資本なのだから。
また 観念というからと言って いわゆる精神主義でもなければ 利害関係から離れたその観念を持ちだしているのでもない。自らの思想をうたとして表現し これを社会行為のひとつの基礎とするなら 人は 当然のごとく 観念の資本家である。これが 経済行為とつながるかどうか どのようにつながるか また つながって成功したときには 資本家的市民となるか これらのことがらは その後の問題である。
われわれスサノヲは 一般に うたの主体である。これが 内面的に耕されて 広く深く光をともなったアマテラスとなるか どのようなかたちでそうなるか こういった問題であるとも言っておくことができる。
近代市民の経済人としての市民資本家(スサノヲ・キャピタリスト)は 同時に いま言う観念の資本主体として世に出てきたというとき おもろさうしの神女や王や一般市民の《うた》と はたして 現代でも つながりがあるのか無いのか。現代人は もう このような原始心性を 過去に葬り去ってきたのか そんな課題をもってすすむ。
いや もう少し積極的に言うことができるであろう。
現代人が もし《神が降れて 聞こえ大君が 遊びよわる》という原始心性そのままの観念の資本主体でないとした場合 その社会資本を生み出し生活を豊かにしてきた理性としての知解力 これは 神から降りてきたコギトではないのだろうかとも問われている。その神にかかわる自然心性の部分を もうわからないとして問わなくなっただけであるかも知れない。コギトが有限であるならば つねに そういう疑いがつきまとうと考えられる。疑い――これも うたの交わし合いである――を消そうと思えば 《そこは問わない》という領域を設定した上ででなければむつかしい。
近代知性が あらたな原始心性であるかも知れないという疑いも生じているかも知れない。その意味では はじめの原始心性じたいを 現代人の知解力で しかるべく捉えることが要請されているかも知れない。

  • 一般に 偶像崇拝 idolatrie とよばれる実態である。アイドルに憑依する事象である。アイドルは 貨幣であったり 権力であったりする。別様の一般的な言い方では 理性をはたらかせつつも それを 所有欲や支配欲に支配された心性のおもむくところへ 用いる場合である。

沖縄の万葉集とも言われる《おもろさうし (上) (岩波文庫)》を取り上げるのは その編集が十六−十七世紀であるが 収録されたうたは 国家成立の以前の時代にまでさかのぼると考えられるからである。歴史的な継承もしくは非継承を とらえるのによいと考えられる。
もし誤解を恐れずにきわめて大胆に言うとすると 《神が降れて 遊びよわる聞こえ大君》の世界――これは たとえば《イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)》と分析されたりする――の中に 少なくとも もういちど吟味して問い求めるべきといったヤシロロジの現実があるかも知れない。そのヤシロ資本を推進する或る力が 存在していると捉えられるかも知れない。
つまり 聞こえ大君は 実際には 素朴なスサノヲではなく もっぱらのアマテラス公民であるから それは 《祭りのさ中》であるというよりは アマテラス圏の《まつりごと(政治)のさ中》であるというやはり うたがひを挟まなければならないかも知れない。だから だれもが かんたんに アマテラス化(出世間)することができるかは わからない。アマテラス統治主体であるからスサノヲのアマテラス化(開眼)が 成就したか これは にわかには分からない。一般に 民主主義(スサノヲ主権)の観点からいえば 共同自治の権限をその社会的な公職として託されたアマテラスは ここで言えばまず 次のようでなくてはいけない。つまり アマテラスとしての聞こえ大君が遊びよわることは 王が天が下にちよわるためであり 王がちよわるのは 市民スサノヲの生活のためであることが アマアガリ(アマテラス化)の基本条件である。この基本の観点と おもろさうしのうたうたでは 同じであるか ちがいが生じているか これも 問い求めたい課題である。
たとえば アマテラス職に就いている聞こえ大君が 見事に遊びよわるなら あとは すべてめでたしめでたしだとするか――これに対しては 近代市民なら 否という答えを用意している。そうとは限らないという答えである。
何が何でも 聞こえ大君の遊び(舞い)具合いによるというのは 原始心性というよりも 呪術心性である。何も考えず いったんまじないが行われたなら その託宣は ありがたいものとして 押し戴くという呪術によっている。そこでは アマテラスとスサノヲとの間に 寄せと寄り(寄せられ)との関係が成り立っている。これが 一般に まつりごとだと考えられてきた。

  • ヨセとヨリとの関係における心性は 原形的な自然心性としての原始心性とは違うと考えることが出来る。その間を抜けるようにして 静かに立つイリ(入り)という心性の思想があった。ミマキイリヒコイニヱのミコトという市長が推戴されて立ったヤシロの実態である。《古事記・その史観》を参照してください。→2005-06-20 - caguirofie050620。
  • だから ヨセとヨリというような関係における偶像崇拝の心性は 自然本性の原始心性ではなく 恣意的なこころが何ものかに憑依して みづからの自由意志を放棄し どこまでも他のものに依存していこうという退化した心性である。

おそらく スサノヲ市民のまつりは 寄せる側と寄せられる側とでどちらが主導性を発揮するかについての方向が逆である。アマテラス圏による主導制ではなく スサノヲ圏がA圏を導くかたちでなくてはならない。いや もしくは そういう方向の問題として捉えるよりも もともと 両者のあいだに 基本的なうたの一致がある。この基礎に立ってその基盤としてのうたの構造(観念の資本)のために 市民スサノヲの中から当番としてアマテラス公職に就くというのが 基本であろう。そのあたりの事情が 聞こえ大君の周辺では どのように成り立っているのか このようにも問うてみたい。

  • ミマキイリヒコイニヱのミコト(いわゆる崇神天皇)なるA者と うたの構造において 互いに一致していたというのは むろん一般スサノヲ市民がであり そのS者の代表(代理表現)は オホタタネコと言う。→《古事記・その史観》。

いや 現実はそんなに甘くない 観念などを追わないで もっと 足を地につけて見てみたまえ スサノヲ圏なるヤシロの生活において 人びとのあいだに基本的なうたの一致などないはずだ そしてその意味で 個人主義だという反論があるかも知れない。そのようなうたについても 実際にどうなのか 考えていこう。
原始心性のうたは もしかすると ほくろやあざのような単なる母斑であるかも知れない。そう言えるなら そう言える近代知性を あらためて 吟味し 吟味し終えて 立派であるなら そのことを顕揚していきたい。
(つづく→2006-09-19 - caguirofie060919)