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哲学いろいろ

#19

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《シントイスム‐クリスチア二スム》連関(神神習合)について――梅原古代学の方法への批判――(その四)

梅原は その古代学の探検において言っている。

ウソがあれば これを捨て去るのではなくて このウソが何故作成されなければならなかったか これを明らかにすることが重要だと思う。

このような主旨であるが イエスの死が 《死・復活の教説で説明したパウロによって脚色された》とするならば これが何故脚色されねばならなかったかと問うべきである。
そしてこれに答えて 梅原は次のように言う。つまり

釈迦の死を イエス・キリストソクラテスの死に比較することにした。・・・そのとき イエスの死はパウロに ソクラテスの死はプラトンによってみごとにドラマ化され みごとに脚色された死ではないかと思ったのである。このドラマの脚色を われわれは 一つの宗教的・あるいは哲学的演出と簡単に見過ごすことはできない。なぜならば その演出に もっとも根本的な西洋文化のあり方がかかっているから。
(仏教の思想・上 p.36)

として 次の結論を導いた。

この死・復活の思想は 魂の不死の思想と同じく 死の克服を最大のねらいとしているようである。イエス・キリストの死・復活さえ信じれば魂の永遠の浄福をうることができる。その思想はおどろくべき思想のようである。そして人間が肉の衣を着て 死・復活するという思想は プラトンによって語られた魂の不死の思想より はるかに卓越した思想のようであった。
・・・
ヨーロッパ思想の根底には このような二つの不死の信仰がある。そしてその信仰を成立させたものは ソクラテスの死とイエス・キリストの死であると私はあえて言いたいのである。二つの死の秘儀 その秘儀の中にヨーロッパ文明の秘密が隠れているのである。
(仏教の思想・上 pp.58−59)

結論と言ったが 必ずしもそのように推論が運ばれているわけではない。ただ驚いているだけなのだが そのような対処の仕方 これは 梅原流のシントイスムのうたの構造なのである。そして確かに 次に なぜ脚色しなければならなかったか これについて述べている。仏教が 《死の受容》の思想であるのに対し これら 二つの死のからむ西洋の思想は 《死の克服》のそれであると。
《明々白々なる生死無常の理を語り それを実践したのみである》ブッダの《大いなる死》 この死の受容の思想が そしてもしこの場合 そこに《死の要素が多すぎて・・・死の宗教になりがち》であるとするなら 《もう一度 生の光を投じ・・・この死の哲学の上に生の哲学をつくり 否定の哲学から肯定の哲学への道を大胆に切りひらこうとするさまざまな試みから成り立っている》そのブッディスムが やはり迎え入れられることになるのだと。このように要約することができる。 
ブッディスムが 死の哲学であると思わないなら クリスチア二スムが 不死の信仰であると割り切ることにも 批判が投じられてよいと思うが 梅原の言わんとするところは さらにここに最後に引用を重ねてもよいと思われるほど 次のようである。

もう一度人類はおのれの死と生を深く考えることから出発しなければならない。近代ヨーロッパ哲学のように 人間を不死なる自我 あるいは 不死なる理性としてとらえる見方は けっして正しい人間のとらえ方ではないと思う。死の問題から人間をとらえなおすことが必要である。われわれが 釈迦ばかりか 仏教思想に 今後の人類を導く思想創造の可能性を見いだすのは そのような死に対する洞察の深さゆえである。
(仏教の思想・上 pp.60−61)

この主張によく表わされている。途中の議論をまだまだ省略したかっこうであるが おおよそその意は了解されることと思う。
また むしろこの結論は 二点を除けば――すなわち ブッディスムの先入見としてのような優位性という側面をのぞけば そして 近代ヨーロッパ哲学が ヨーロッパの思想のすべてではないという点を添えれば―― 一般に迎え入れられるうたの過程であるかと思う。問題は うたの過程であると言うのであって このような経験的なことがらを超えて うたの構造を把握しなければならない。真理の坑夫は ここに立ち止まらず ここから出発を開始すべきだろうというヤシロロジの原点に傾く。

釈迦の死を 一つの諦めの目で見ることはできない。生きるものはたしかに死ぬかもしれない。存在そのものはたしかに無常かもしれない。しかしそれがなんであろう。しかし 滅びゆくものがそのままに もっとも愛すべきものである。もっとも喜ぶべきものであるのではないか それが釈迦の最後の笑いかもしれないのである。
(p.40)

釈迦の最後の笑いというのは 《大いなる死(涅槃経)》に記されているそれらしい。そして ここから ヤシロロジは始まるのである。論じるまでもなく クリスチア二スムにしろシントイスムにしろ あるいはソクラテスにしろ孔子にしろ そもそもここから始めたのではなかったか。不死の信仰へ導かれるかどうかを別として――ただしわたしたちは 不死の信仰 すなわち信仰は まだあの人間のはじめの栄光に属すると アウグスティヌスとともに言う(アウグスティヌス三位一体論14:3)のだが〔なぜなら 信仰は 《鏡をとおして見まつる》というときの《鏡》であるから〕―― 《最後の笑い》がはじめにおいて 言いかえれば はじめに信仰(このときは 信仰である)において《栄光から栄光へ変えられる》であろうことを 予表され或る種の事柄において予感することなくしては それは ブッディスムにならって言うならば 悟り(彼岸)へとは導かれえない世間一般の哲学でしかないからである。
アウグスティヌスが次のように言うとき それはクリスチア二スムの言葉であって シントイスムに迎え入れられるべき・あるいはすでにシントイスムに予表されているヤシロロジの原点をうたっていないか。

私たちの精神(存在)の中に今ある信仰(あるいは 不信仰という信仰の予表形)は 丁度 場所の中にある物体のように 保持され 見られ 愛される限り 或る種の三一性(三つの行為能力の一体性)を作るのである。

  • そのように 万葉の時代が始められ 封建市民の時代が始められ 明治維新が開始された。《キャピタリスム(知解:立法)‐デモクラシ(記憶:法秩序)‐インタスサノヲイスム(愛・意志:行政)》の三つの能力行為の一体性。ひとりの個体における総合的な一体性 および 社会的に総合的な一体性。

しかし 精神の中にあるこの信仰が 場所にある物体のように もはや存在しなくなるときには その三一性も存在しなくなるであろう。そして 私たちの中に今は存在しないか かつて存在したと私たちが回想するあの時に存在するであろう三一性は勿論 別のものであろう。

  • シントイスム流にいえば 人がカミになることを得るときには 別の三一性を持つであろう。記憶の秩序にあるようには 知解できず 知解しえたようには 意志できず 意志したとしても そのとおりには 現実の状態・秩序が得られないという第一の栄光とは別の栄光へ 変えられてあるなら そのときには(カミであるなら) もはや信仰は必要でなくなる。

今存在するものは信じる人の精神に現在し 定着した事物そのものが作るのであり

  • 近代市民のキャピタリスムも こうして 存在・思惟・内省=行為の形式の三一性 生産=組織=経営行為の三一性を その時代として作る

また かの時(悟り・ニルヴァーナの時)に存在するであろうものは 回想する人の記憶に遺された過ぎ去ったものの似像が作るであろう。
アウグスティヌス三位一体論 14:3)

《似像(にすがた)が作る》と言うのであって いまの――たとえば不死の――信仰が 信仰として かの時(ヤシロの奥なる存在を見まつるとき)のわたくしを作るのではない。
《私たちは鏡をとおして謎において見ているが かの時には顔と顔を合わせて見るであろう》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 13:2)そのとき 

私たちは 
〔たとえば 長歌のようなペルソナなる〕顔蔽いなくして
カミの栄光を鏡に映すように見つつ 
栄光から栄光へ 
あたかもカミの霊によってのように 
同じ似像に変えられるであろう。
コリント人への手紙第2 (ティンデル聖書注解) 3:18)

というとき つまり今 信仰は 《似像の視観・思惟――その知解の完全無欠性を問わない――》であって そしてそのものが 似像として作られているという予表を持って あるというのであって このうたの構造は あまりにも《脚色・ドラマ化・宗教的演出》からは遠い。人麻呂が これを予感して これに固着せざるをえないようにして固着し生きたと言わずして 何を人間の生と言うであろうか。何を生と死と言うであろうか。パウロその人が このように生きたと言わずして 真理の自由が われわれの手に与えられることができようか。
これらすべての知恵と知識とが イエス・キリストその人――はじめの人――にあったとかれが 語らなかったであろうか。これは われわれの 此岸的な あるいは ヤシロロジとしての問題なのである。
《したがって 今でも存在しない三一性(たとえば 真理の坑道の限界を超えてあるであろうとする 演出されたカミの三一性)は カミの似像ではないであろう。また あの時(カミ直視の第二の栄光のとき)存在しないであろう三一性(信仰という信仰 または不信仰・無信仰という信仰)も カミの似像(ヤシロそのもの)ではない。しかし》――しかし―― われわれの誇る弱さに翼が生えて アマテラス界へとアマガケリすることのないようにと 《しかし
人間の魂 すなわち理性的あるいは知解的な魂においてこそ その不可死性に不可死的に植えつけられたカミ(創造主)の似像は見出されなければならない》とつづけて論じられている(14:4)。

われわれはここで たしかに これへと《知恵のある者を責め》ていかなければならない。さらにつづけて論じるアウグスティヌスを シントイスム‐クリスチア二スム連関において すなわち シントイスムの土壌に立って 読むべきである。
(つづく→2006-09-02 - caguirofie060902)