caguirofie

哲学いろいろ

#20

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二補 《観念の資本》小論〓 ――夕顔の系譜としての浮舟論――

(一夫一婦方式をめぐり 江藤淳作家は行動する (講談社文芸文庫)および漱石明暗 (岩波文庫)にかんする議論をつづけている。)


源氏物語における対関係は 少なくとも当時 幾何学的な制度としての一夫一婦が定立されていなかったことにより 主として その形成過程そのものが 同じ一人の主人公について いくつかの形式(すきずきしさ)として より動態的に 捉えられ描かれたと考えられうる。
漱石の作品においては 総じて 対関係は 一夫一婦の形態を前提として その形態の中での動態的な過程を描く。
おおむね 主人公である夫が その妻のなにびとたるかを理解しえないで 内的にも外的にも 葛藤する そういったかたちではあるが 動態的な過程(また家庭)を描く。もしくは その一夫一婦を基軸とした三角関係の中での観念的な運動の過程つまり心理をとらえる。
現代においては 漱石の時代の一夫一婦の視角は ある意味で相対化され 対関係は ある意味でふたたび 源氏物語をも容れて より動態的に 経験されうる。相対化されというのは 従って 一般に キャピタリスム共同主観に付き従うというよりは 伝統的な共同観念(慣習)を容れて それにも拠って キャピタリスムじたいを 発展させ さらに新制度へ移行させようとするかに見られる情況である。
その意味では 一般に社会関係としての《明と暗》は より個体的な領域において 捉えられ実践される。ただこの自由は しかしながら どこまでがそうであり どこからがそうでないか この点は また別の問題にも属す。市民社会学の誕生の所以は ここにあるが まずこの点は 総じて葛藤といった時間の複合性の停滞めいた行動に終わったのであるものの 漱石のよく捉えて分析したことであると言える。

彼女(お延)は津田に一寸の余裕も与へない女であった。其の代わり自分にも五分の寛ぎさへ残して置く事の出来ない性質(たち)に生まれ付いてゐた。
彼女はただ随時随所に精一杯の作用を恣ままにする丈であった。勢ひ津田は始終受身の働きを余儀なくされた。さうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを嘗(な)めなければならなかった。
所が清子を前へ据ゑると 其所に全く別種の趣が出て来た。段取は急に逆になった。相撲で云へば 彼女は何時でも津田の声を受けて立った。だから彼女を向ふへ廻した津田は 必ず積極的に作用した。それも十が十迄楽々と出来た。
二人取り残された時の彼は 取り残された後で始めて此の特色に気が付いた。気が付くと昔の女に対する過去の記憶が何時の間にか蘇生してゐた。今迄彼の予想しつつあった手持ち無沙汰の感じが 丁度其の手持ち無沙汰の起こらなければならないと云ふ間際へ来て 不思議にも急に消えた。彼は伸びのびした心持ちで清子の前に坐っていた。・・・
――関君は何うしました。相変わらず御勉強ですか。其の後御無沙汰をして一向お目に掛りませんが。
津田は何の気も付かなかった。会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は 利害関係から見ても 今日迄自分等二人の間に起った感情の行き掛り上から考へても 又それ等の纏綿した情実を傍に置いた 自然不自然の批判から云っても 実は一思案しなければならない点であった。
明暗 (岩波文庫) 百八十五)

津田にとって お延とのあいだには その最初の約定(プロポーズ)がいかなるかたちのものであったにせよ・なかったにせよ それに発して その過程は じっくりと流れている。清子とのあいだには――すでに 他人の妻となったかのじょとの間には―― このような複合(屈折)した時間を伴ないながらも あたかも エロス的人間としての源氏類型を継承するかのように なお物語の言葉を使えば あやにくに 発進され形成されていこうとする。
このことは むしろ積極的に 対関係の自由なる領域を形作っていると言うべきだと思われる。そしてその形式は 時間複合を積極的に摂り入れたものとしての 対関係の猶予という対関係形式だと思われる。対関係から見た《モラトリアム人間》《〔積極的な〕甘えの構造》《うたの構造》であると考える。
ただし問題は――自由の問題は―― 《〔いろんな点から言って〕 一思案しなければならなかった》にもかかわらず ある点から見れば対関係発進の言葉ともおぼつかないような問いかけをしたことを 《津田は何の気も付かなかった》ことにある。清子に対して《清子の夫を問題にする事の可否》についてである。
可否は はっきりしている。作者の視点から見てここに挙げられたいろんな事情を考えれば 津田は これを言い出すべきではなかった。さらには かれは そもそもこのように別れた恋人とは会うべきでなかった。これは 猶予形式のそれじたいの発展としての離別といった視点をも提起する。離別という一つの対関係のあり方である。
《観念の資本》となった一つの対関係を 言わばその段階で凍結して そのかぎりで それの私的領有を放棄し――互いに放棄し―― それを一つのかたちの社会資本へと揚棄する。放棄し 揚棄する。このようなあり方が考えられる。ここ すなわち 作者としての漱石の反省には 総じて 市民社会学としての 神の問題がある。意味は 社会資本という抽象的な無限性の問題 または 三人称主体の問題である。

  • 江藤の言葉で そういうことになる。また神の問題と言っても クリスチア二スムに疎い日本人にとっては せいぜいが その程度である。その程度が その程度でも 共同観念まみれの市民社会においては いや要するに 対の関係においては 動態の要因なのである。


このように考えるとき――ここで物語のほうに 移りたいと思うが―― 対関係の過程の中で 神(または 仏)を見て・・・
(つづく→2006-07-29 - caguirofie060729)