caguirofie

哲学いろいろ

#9

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一 《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――

いま 物語の世界から 目を 市民社会学じたいの領域へ 転じてみよう。空蝉への理解に入る前に そのナルキッサ説を仮定した上でだが 原則的なナルシシスム論をおさえておきたい。
まず ナルシス(ナルキッソス)を論じたのは われわれにとってほかならぬポール・ヴァレリであった。第一に ヴァレリは その《ナルシス語る Naricisse parle. 》と題した五十八行の中篇詩を そのエピグラフの語るとおり 《ナルキッサの愛を鎮めるために(鈴木信太郎訳) Naricissae placandis manibus / または ナルキッサの手によって慰められるべき〔ナルキッソス〕》を 詠んだ(1890-1920)。
われわれは 《霊》といったような 精神の垂直的上昇の領有域を必ずしも見ない。従って つねに たとえばこのヴァレリの視点を 現世‐内‐存在 その意味での《世間‐出世間》体系の中においてのみ 把握するのだが それにしても 源氏物語においても 空蝉とはちがって のちにあるいは触れようとするように 春宮(とうぐう)の後家としての六条御息所(源氏にとっては叔母にあたる)が 源氏とやはり対関係を結び しかしながら 執心のあまり 《物の怪》(?)となって 源氏のほかの対関係の相手に取り憑くといったことを考えても 一般に このような霊もしくは物の怪といった対関係の幻想領域を それとして われわれの視野に容れて語る必要があるかも知れない。
しづれにしても そのような点をも含みおいて まず ヴァレリの《ナルキッソスの語る》ところを 捉えておこう。《ナルシス語る》の詩編は 次のように始められる。

ああ おとうと 悲しい百合よ わたしは美を患い おまえたちの裸身の中にわたしじしんを願い おまえたちに
ナンフ ナンフ 泉のナンフよ おまえたちに わたしは
至純の沈黙においてわたしの空しい涙を献りにきたのだ。

O frères ! tristes lys, je languis de beauté
Pour m'être désiré dans votre nudité.
Et vers vous, Nymphe, Nymphe, ô Nymphe des fontaines,
Je viens au pure silence offrir mes larmes vaines.

一般に 物の怪とは 《もの(鬼・霊)のけ(気)》であるとするなら このナルキッサの霊は 人間の怪であり 自身に取り憑いた物の怪である。自ら一人が ひとりみづから あたかも対関係を形成するという幻想形態である。ナルキッソスが 《おとうと( frères )》と呼びかけて 対関係形成におもむく(口説く)その相手であり しかもかれが かれ自ら《むなしい涙を献りにきた》と呼びかけなければならない一市民なのである。
ただし ここで ヴァレリの作品においては ナルキッソス自身が 今度は 物の怪となって ナルキッサに向かいある一種その対関係のかたちを読み取らねばならない。従って かれは そののち

さよならナルシス・・・死にゆくのだ!
この黄昏に

Adieu, Narcisse... Meurs ! Voici le crépuscule.
( 45e ligne )

とうたわなければならない。源氏は 空蝉に対して 《ねたうおぼしいづ》のみである。いやしくも 市民が 生産行為関係を大前提とし その中で 特殊に(つまり 種として)対関係を形成していくというとき――したがって 市民社会を再生産し 既存の生産行為関係を新たな時代へと揚棄していくというとき―― 一般に 物の怪的市民は その停滞性領域を表わし 人間の怪・ナルキッサは その原始的な(プロト)停滞性を形作る。こう考えざるをえない。その対関係は

ああ 影像は空しく涙こそ永遠である。
青い森と友愛にみちた腕を越えて
やさしい光の曖昧の時間が存在していて
その光の残りでわたしを婚約者に作り上げる 裸のままの婚約者を・・・
( lignes 18-22 )

とうたわれるとおりの形を呈する。

  • あるいは 次のような流れとして。 

ちょうど夕暮れの薄暗がりに覚醒とも睡眠ともつかぬ入眠幻覚がたどる流れ・・・
吉本隆明改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫) 憑人論)

このかたちは 停滞性から自由でなく 対関係を形成しきったとは言えない。さらに それに対して 停滞性を破るモメントは ヴァレリにおいて 後に 別の作品《ナルシス断章 Fragments du Narcisse 》(1919)の中で 次のように直截にうたわれる。

水波女(ナンフ)らよ 汝らわれを愛するならば
常に寐(い)ぬべし。
(7e ligne )


罷(や)めよ 小(を)暗き精霊よ 目醒めたる霊魂(たましひ)の中に
       おのづから成る 不安なるこの仕事を。
・・・
汝の視線に 完璧なるこの獲物を捕らへて
互に愛し愛さるる怪物の俘虜の身となれ。
・・・
       凶(いま)はしと誰かまた言ふ・・・
( lignes 85 - 95 ――鈴木信太郎訳)

これが ナルキッサへの対関係 もしくは入眠幻覚主体ナルキッサじしんをめぐっての・西欧的に市民社会を形成しようとする生産力 の一形式である。

  • なお これらの詩句の属する一編は のちに《ナルシス断章 Fragments du Naricisse 》として編まれた三部構成のうちの第一部である。われわれは その第二部・三部は これらを摂らない。およそ対関係成立の正しい意味で その形成へのモメントは ここまでであると考える。入眠幻覚を破るモメントと言ってもよい。

そこで ふたたび 空蝉論に戻って 日本的にもしくはアジア的に 市民社会を形成しようとするその形式――停滞性を破る動態論――を 物語の中に求めていきたい。


源氏と空蝉との最初の出会いは こうである。そこでは 紀伊の介邸において 障子の外から空蝉の部屋をうかがっていた源氏が さらにその寝所にしのび入ったのち 露骨にあの《うちつけのすきずきしさ》の行為に出る場面が 展開される。源氏が 空蝉に声をかけて言うには この露骨さを みづから奪い取ったていのものである。

――《うちつけに深からぬ心の程》と〔御身が〕見給ふらん ことわりなれど 《年ごろ 〔空蝉を〕思ひわたる心のうちも 聞え知らせむ》とてなん 〔私が〕かかる折を 待ち出でたるも 〔源氏の心は〕《さらに浅くはあらじ》と 思ひなし給へ。
と いとやはらかにのたまひて・・・
(帚木――源氏が空蝉の寝所に忍ぶくだり)

これが アジア市民的に 日本語によって ナルキッサに語りかける対関係への一形式を示す。(行動じたいは 旧い。)作者の眼はむしろ ナルキッサのほうに向けられていると言ってよく その点では 批判的視点を持つものであり 批判というかたちにおいては 市民社会への社会科学からする一動態論の基本であるとさえ言ってよい。
死か生か 生産行為関係への参画か否か これを根底的に問う限りにおいて この対関係領域こそが 市民社会の基軸を成すを言っておい。このくだりでは――まだ 空蝉の明確な応対が現われるに至っていないが―― 対関係の内包と外延 つまり 源氏と空蝉との《私的な二項関係》と そして かれらと作者との《自称(複数)‐他称の関係》 これら両者の錯綜構造が 図式的ながら すでに始まっている。性(性関係)が 生産(生産関係)に 直結している私的な領有域がある。
これに対する反論としては ただちに こうであろう。すなわち 当時の身分関係(共同観念的な分業)に基づいた生産行為関係(市民社会)が ここでは 大前提となっているのであった 中の品の空蝉にとっては 臣籍に下がったとは言え位の高い源氏に対して そこに対関係を築こうにも 築きようがないのだとする見方が それである。従って 《自己抑制の精神》であると。実際 空蝉の内側に分け入って 事情を察すれば

――現(うつつ)ともおぼえずこそ。〔私は〕数ならぬ身ながらも 〔私を〕おぼしくたしける 〔御身の〕御心ばへの程も いかが 浅くは思う給へざらん。《いと 〔私如き〕かやうなる際(きは)は 際》とこそ 侍るなれ。 Can it be true ? Can I be asked to believe that you are not making fun of me ? Women of low estate should have husbands of low estate.
(帚木――承前)

というように その場に身分関係(それにもとづく思惟=行為様式)が 持ち出され それによって この様式の中の生産行為関係においては 《身分の差異は すなわち 対関係の不成立》という一観念が 提示され 確認を求められる。一般に このことは――すでに触れたように―― 《自らの境涯をわきまえた自己抑制の精神》として 肯定的に 評価されている。このような反論の立ち場である。
しかし われわれは まず この観念ほど 自己抑制の精神からほど遠いものはないと考える。
(つづく→2006-07-18 - caguirofie060718)