caguirofie

哲学いろいろ

#8

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一 《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――

かようの くだくだしきことは 〔源氏が〕あながちに かくろへ忍び給ひしもいとほしくて みな漏らしとどめたるを

などか 帝(みかど)の御子ならむからに 見ん人さへ かたほならず 〔帝の御子=源氏を〕ものほめがちなる

と 〔この物語を〕つくりごとめきて とりなす人 ものし給ひければなむ。あまり 物言ひさがなき罪 さりどころなく。


I have hoped, out of deference to him, to conceal these difficult matters; but I have been accused of romancing ,  of pretending that because he was the son of an emperor he had no faults. Now, perehaps, I shall be accused of having revealed too much.
(夕顔――巻末)

この一文は 申すまでもなく 帚木・空蝉そして夕顔の三巻において 源氏の《さるまじき御振舞》を作者が暴露したことに対する作者自身の意見を 物語文中を借りて 述べるところである。言われているとおり 帚木冒頭の前口上に呼応する結びをなす一段である。
特に 重ねて 口語訳をしめせば

このように わずらわしいことは つとめて内証にしておられたのも気の毒ゆえ 一切ひかえて言わないでおいたのだが 

帝の御子だからとて これを知っている者までが むやみと何もかもほめちぎっていいのか

と まるで作りごとのように見なす人があったものだから 思いきってありのまま語ったのである。あまり口がわるすぎるとの非難はまぬかれようもないことで・・・。
秋山虔訳)

というようであり そしてここでも はっきりと 《作者》が出ている。
また そのように 物語作者の視点を出すことによって 《作りごと》を構成している箇所である。この仮構は 成功していると言えよう。前口上とこの結びとにはさまれた三つ巻の部分に現実性が生まれると言える。
そこで まずもって 作者によって このように暴露された源氏の現実とは いかなるものであったのか。この章では その一つとしてすなわち空蝉なる女性を取り上げたい。

  • なお 空蝉が 直接 登場するのは これら三巻と 巻六末摘花の冒頭そして後日譚のかたちでの巻十六関屋および巻二十三初音とである。


さて 源氏じしん《かくろへ忍び給ひし》そのウィタ・セクスアリスとは いかなる対関係の形式・したがって内容 であったか。
作者――おそらくは 紫式部とあだ名される一人の女性――によって 帚木(つまり蜃気楼の意)もしくは蝉の抜け殻と呼ばれたこの空蝉という女性の存在は いかなる市民のことを言うのか。
オホクニヌシの諸類型においては 嫡妻スセリヒメを畏みて わが子を木の俣にさしはさんで帰ってしまったというヤガミヒメに 前もって 比していたこの空蝉とは。
たとえば いまこの帚木以下三巻で問題のアヴァンチュールがあって その翌年(源氏十八歳) 巻六・末摘花において 主人公が 

かの空蝉を 物のをりをりには ねたう(こしゃくな女だと)おぼしいづ

として この一行が触れられているその女性像とは。
かのじょは おそらく源氏とほぼ同年齢と見てよいと思われるが やがてさらに時を経て 関屋の巻(源氏――流罪の地から召還されたのちの内大臣――二十九歳)において 再会し その後 必ずしも 源氏との対関係においてかれから離れるのではない生涯を送る(初音の巻)ことになる空蝉とは いかなる生産主体であるのか。


そこで この空蝉論は 次に引用する箇所をめぐって 始めたい。初めにまず 市民を一人の生産主体として見るとき 対関係を形成し子をもうけることも この主体じしんの生産・再生産の行為に属すのであって その意味で 家族は 市民社会の基体であるが その点では 空蝉は 後妻として入ったその夫・伊予の介とのあいだに 自らの子は持たない。が いま問題は そこにはない。再生産と言ったとき それは むろん 家族において その単位なる対関係(父と母)およびその第三角(子ども)のことである。
空蝉は かのじょが キャリア・ウーマンという生産主体であろうとして なりえなかったことに発して その市民としての生活があったことに 問題はある。ここで生産とは 具体的に かのじょの親の意向でもあったこととして 帝の后として入内するという社会的役割のことであった。この間の事情は 次の一節に 端的に述べられている。

――・・・姉君(=空蝉)は 朝臣(あそん)のおとうとや持たる。Does she have children ?
――さも侍らず。この二年(ふたとせ)ばかりぞ 〔後妻として〕かくてものし侍れど 《親の掟に違(たが)へり》と〔空蝉は〕思ひ嘆きて 心ゆかぬやうになん 〔私は〕聞き給ふる。 No. She and my father have been married for two years now, but I gather that she is not happy. Her father(故衛門督) meant to send her to court.
――あはれのことや。〔空蝉は〕よろしく聞こえし人ぞかし。まことに よしや。How sad for her.Rumor has it that she is a beauty. Might rumor be correct ?
と のたまへば
――けしうは侍らざるべし。〔私は〕もて離れて 〔継母=空蝉と〕うとうとしう侍れば 〔継母子の〕世の譬(たとひ)にて 〔空蝉に〕むつれ侍らず。Mistaken, I fear. But of course stepsons do not see a great deal of stepmothers.
と申す。
(帚木――源氏が 紀伊の守を召して 小君〔空蝉の実弟〕をさし出せと命ずるくだり)

会話は むろん 源氏と 空蝉の継子・紀伊の守(朝臣という敬称で呼ばれている)とのあいだのやり取りである。ここからは 次のようなことがわかる。

  1. 空蝉と伊予の介とのあいだには 二年の婚姻関係ののち まだ子はないということ
  • 伊予の介と前妻とのあいだの子 つまり 空蝉にとって継子でありかのじょと年齢はそれほど違わないと思われるこの紀伊の守と かのじょとの間には 日常においてあまり言やり取りすべき会話もないということ
  • そして 空蝉およびかのじょの父である今は亡き衛門の督にとって かのじょの将来は かつて 内裏に参入するということにあったこと 

などが知られる。また源氏は 《器量がよいとの評判であるが どうか》などと 紀伊の守に尋ねている。そしてここでは 現在 空蝉が 《〈親の掟(入内せよとの)に違へり〉と思ひ嘆きて 心ゆかぬやうになん》日々を送っているという指摘が 注目されるであろう。
《親である故衛門の督の意向》すなわち空蝉の入内の件に関しては やはりこの箇所の前段にやり取りがあって そこでは これら父娘の人となりを明かし また 同じ文章によって 源氏は 空蝉の存在を すでにあらかじめ知らないわけではなかったと知られる。その点に関しては すなわち

〔空蝉は〕思ひあがれる気色に聞きおき給へる女(むすめ)なれば 〔源氏は〕ゆかしく・・・ Having heard that his host(紀伊の守)'s stepmother was a high-spirited lady,...
――・・・〔桐壺帝=〕うへにも聞し召しおきて 〔娘=空蝉を〕《〈宮づかへに出だしたてん〉と 〔督が〕もらし奏せし いかになりにけん》と いつぞや のたまはせし。 My(源氏の) father had thought of inviting her(空蝉)to court, He was asking just the other day what might have happened to her.
(帚木――源氏が 最初に 紀伊の介邸に赴いたときのくだり)

次に 空蝉が その後 父親に死なれ やがて 伊予の介に嫁したこと そして《思ひ嘆きて 心ゆかぬやうに》過ごすことに対しては 上の引用文にすぐ続いて 第三者から・すなわち源氏と紀伊の介とのやり取りとして 次のようなコメントが やはりうかがわれる。

――・・・世こそ定めなく物なれ。
と いとおよづけのたまふ。 he added with a solemnity rather beyond his years.
――不意に 〔空蝉は〕かくて 〔伊予の介の所に〕ものし侍るなり。
世の中といふもの さのみこそ。今も昔も 〔世は〕さだまりたること侍らぬ。なかにも 女の宿世(すくせ)は いと浮かびたるなん あはれに侍る。it is a very uncertain world...particularly for women. They are like bits of driftwood.
など 〔源氏に〕きこえさす。
――伊予の介 かしづくや。〔空蝉を〕君と思ふらんな。 Your father is no doubt very alert to her needs. Perhaps, indeed, one has trouble knowing who is the master?
――いかが。〔空蝉を〕わたくしの主とこそ 思ひて侍るめるを。《すきずきしきこと》と なにがしよりはじめて うけひき侍らず。 He quite worships her. The rest of us are not entirely happy with the arrangements he has made.
――さりとも 〔伊予の介は〕まうとたちの 〔空蝉に〕つきづきしく 今めきたらんに 〔空蝉を〕おろしたてんやは。かの介は いと由ありて 気色ばめるをや。 But you cannnot expect him to let you young gallants have everything. He has a name in that regard himself. you know.
など 物語し給ひつつ・・・
(帚木――承前)

などなど。そこで このように眺めてきて――つまり 源氏が 実際に 空蝉の部屋をうかがい その寝所にしのび 互いにやり取りがあって といった直接の規定において 考察するというより このように 情況じたいを捉えて それによっていま判断をなすわけであるが―― 生産主体としての空蝉像を描くに それほど困難はない。いま それを 一言で言って 自足自給的生産の主体であると言う。エロスおよび社会的生産について そう捉える。
そして まず この仮説的断定は われわれは 市民社会学において 明示して規定すべきだと考える。言いかえれば 前もって推測するに 作者は――この章の冒頭に見たように―― 《言うのを控えていたのだが ほかの物語部分が 全くの作り事と思われるのを嫌って あえてありのままを語ったのだ》とコメントして 創作した物語のこの一例において 作者自身も 実は 空蝉なる女性への一批判を織り込んだものと考える。
それは 空蝉が 雨夜の品定めの公式(上・中・下の女性三階級論)からいけば 中の品に属し 同時に 言われているように 作者・紫式部じしんも 中の階級に属していたことによって この空蝉を 作者じしんの自画像として措定するとするならば それは 一女性・紫式部による自己批判の文章であるのだと。

  • なお ちなみに この空蝉=作者の自画像説の根拠を そうではなく 両者の《自らの境涯をわきまえた自己抑制の精神》(鈴木日出男)に求める見解がある。しかし われわれは 空蝉に見られるような対関係形成への不参画という自給自足的生産行為を 《自己抑制の精神》とは見ない。のであって 基本的に 作者は ここで 空蝉に対して 否定的であると考える。

すなわち このことを分かりやすくいえば 空蝉の精神は ナルシシスムであるというのが われわれの見解である。同時に 作者のそれであるとしたい。

  • われわれは 男性ナルキッソスに対して 女性のそれを ナルキッサと呼ぶことにしよう。

そこで あらかじめ この章の主題は ナルキッサ空蝉論であり 市民社会学としてのナルシシスム批判にあると言うことができよう。
(つづく→2006-07-17 - caguirofie060717)