caguirofie

哲学いろいろ

#2

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

序 光源氏における対関係の形式 (2)

――市民社会学の諸概念――

補注(1)

《生産(知解)‐正負の愛(愛)‐実存(記憶)》的存在にとって かれが その中の《愛》の側面を 動物と共有する部分があるということによる全体としての連関構造については アウグスティヌスの知解するところによる。たとえば 次の一節。

・・・したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するため或る仕方で還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれと長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ物体そのものを一緒に引き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分がつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。その似像をつくり上げるとき 自分自身の実体の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神( mens )であり 判断するため保持されている理性的な知解力( intelligentia )である。物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物と共有していることを知っている。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 10:5 ( c.415))

知解と愛とは 判断力(実存)のありかの問題として 互いに別のものであって 本質的に連関するというのである。
このやはりアウグスティヌス原点とも言うべく認識された形式は 現代の一精神分学者によれば 次のように捉えられ表現される。

性器的人間の社会的行動と愛の体験は 強烈でしかも自由である。その自我は 快にも不快にも高度の適切性と柔軟性をもつ。
もちろん性器的人間も 現実的な挫折 欲求不満に出会い 傷つき 憂うつにもなるが 決してその状態の中に溺れきって自分を失うことはない。かれは激しく愛することができるとともに激しく憎むこともできる。適当な条件のもとでは子供返りするが 決して幼児になりきらない。かれのまじめさは自然のもので 自分をいろいろ無理をして おとなしく見せかけようとする傾向をもたないから 劣等感の代償の努力のために不自然になることもない。
かれの勇気は 性的能力の誇示ではなく もっと現実的な目標に向けられている。性器的人間は 本当の自信をもっているから 臆病だという非難を避けようと焦りはしない。かれが自分の努力の中で確信することは過大なことではなく いつも自分に対する真の信頼を拠りどころにしている。
性器的人間は ある場合には力強く自己を世界に解放して他者と融合するが ある場合には自分をしっかりと世界からきり離し自立することができる。そして この自由さこそその全人格の特質であり この特質つまり自信をもって他人に自分を与え失う能力は その性体験の中で 頂点に達する。愛の伴侶との性行為の中で 自我は感覚の機能だけに縮小され 自己をその行為と感覚の中に没入させることに何の恐怖も感じない。
全人格はこの快感体験の中に没入し 自我は一時的にせよ ほとんど完全に開放される。なぜならば 自我はどんなにそうなっても自分を回復できるという確固とした自信をもっているからである。
このような自己の完全な開放と実現 愛の伴侶との一致・融合こそ かれの人生の原点である。

 6 性器的人間への道 〈4〉 性器的人間の誕生)

補注2

《出世 または 出世間 lokottara 》という概念は 次のような事情のもとにある。
ブッディストは 世間(世界)を分析して 一つに 次の区分をなす。すなわち 世間 loka およびそれに対するものとしての出世間 lokottara とであり 卑近な言い方をすれば 

出世間が悟りの世界であるのに対して 世間は三界六道の迷いの世界である。
(水野弘元)

のだが われわれの概念に引き寄せて規定すれば こうなる。
《世間‐出世間》の関係が
ブッダ(市民)‐アジャータシャトル(王 / 社会科学主体=職務としての公民)》の連関
または
《Susanowo−Amaterasu》連関にほかならない。わたくしとおほやけとの分離連関。
われわれはここで スサノヲの愛欲を指して この出世の概念のもととし 個体としての企業(実存)と称することとしよう。

補注3

《アベラールとエロイーズ》という一対の関係形式は 広く西欧的社会体系におけるそのひとつの典型として そして 《シャクンタラー姫とドゥフシャンタ王》の対関係形式は 広くアジア的社会体系におけるその一典型として それぞれ規定できるであろうという考えである。
ここで 源氏物語に対比すべき対関係の体系を扱ったものとして 現代の無数の愛の物語りはともかく 古典として 西欧では 古典古代のギリシャ悲劇などが そして アジアでは 古事記などが それぞれ参看されるであろうと思われる。古事記としては 殊にスサノヲの末裔としてのオホクニヌシの愛欲過程の部分が挙げられる。
ただ いまは 次のような理由で それらは 本質的に不可欠なものとは見ない。言いかえれば 同じ理由で それらは この今の《アベラール‐エロイーズ》類型および《シャクンタラー‐ドゥフシャンタ》類型とに いづれも本質的に含まれうると見る。すなわち――理由を述べることを後にすれば―― 結論的に言って 
《アベラールとエロイーズ》類型が含みうる対関係形式は 

などである。また
《シャクンタラー姫とドゥフシャンタ王》類型が含みうる対関係形式は

  • 日本神話:オホクニヌシとスセリヒメとのハッピー・エンド(恋の成就=スタート)形式などである。

きわめて概括的な話ながら そのように仮説し またそれらの詳しいそれぞれの弁証法的過程をいま端折って 類型的にとらえてみるなら いま述べなければならない理由というのは まず一方においてこうである。すなわち西欧的社会体系において いま上にあげたこれらの各民族の共同観念 つまりはそのナショナリスム原形式(つまりは ギリシャ教・ローマ教・ゲルマン教などと言えるそれ)のもとにおける対関係形式は 《イエス・キリスト信仰(アウグスティヌス原点)》の形成 つまりわれわれの見方に引き寄せて
《Susanowo(私) = Amaterasu (公)》の統合する連関(それは 顕教
の出現の中に たとえば《ギリシャ教‐キリスト教》なる連関が成立したことによって そのキリスト教の位置に先の《アベラール‐エロイーズ》類型がおさまると見るところにある。たとえばギリシャ教のうちの《メネラーオス‐ヘレネー》対関係形式は 公の位置にある《アベラール‐エロイーズ》類型に対峙し さらには それによって含まれるかのようなかたちにあると考えられる。
他方でアジア的社会体系において やはり各民族の共同観念の原形式(インド教〔=ヒンズー教〕・日本教など)のもとにおける対関係形式は すでに はじめに
《Susanowo - Amaterasu 》分離連関(これは 密教
が成立して存在することによって 《シャクンタラー姫‐ドゥフシャンタ王》連関も 同一の類型として把握しうるということ――いま 仮説的に―― これらの視点に いま述べるべき理由はある。
エウリピデースの描く《ヘレネー》は メネラーオスの王妃ヘレネーが トロイアの王子パリスによって トロイアにまでは 実は 連れ去られていかずに 途中エジプトに漂着し かのじょだけは そこに留まったのであって トロイア戦争の原因となりメネラーオスの兄アガメムノーンらがその奪還の対象としたヘレネーは ただ パリスとともに その幻影 ’ειδορονとして赴いたにすぎないとする。そこで トロイア戦争からの帰途 メネラーオスはやはりエジプトに漂着するのであって そこでヘレネーと再会し かれは かのじょを エジプト王テオクリュメノスの手から 一計を案じて 奪い返し 首尾よく幸せにも二人は 故国への帰還の途に就くと言う。
すなわち――もとよりこれは 一説ではあるが―― ゼウス(つまり ギリシャ的な共同観念のうちの Amaterasu )の娘であるヘレネーは メネラーオスとの対関係において 決して言われているような淫らな女ではなかったとするのであり このエウリピデースの一視点は 大づかみに言って ここで 《いまはキリストにおいて愛し合うアベラールとエロイーズ》の対関係形式の原形であるか もしくは逆に それへと止揚されるべきものとして 規定する視点が成り立つと思われる。
ヘレネーは エロイーズを出ない。もしそうでない場合は 閉鎖的な共同観念(ヘレニスム)のうちに 対関係時間が――源氏物語の語るところによれば 《うちつけのすきずきしさ promiscuity 》類型として―― 流れると見なければならない。
この共同観念的な《うちつけのすきずきしさ》類型 その枠を 脱し得なかった例は ローマ教(ラテニスム)における一類型・
カルタゴの女王ディードーの トロイアの王子でありローマ建国への漂浪の旅の途中にあるアイネーアースへの悲恋》形式
であり また ゲルマン教における一類型・
ネーデルラントの王子ジークフリートの ブルグンド王女クリームヒルトへの恋の 未実現》形式
とである。これらの場合は アイネーアースのローマ建国(祖国トロイア陥落ののち 別の地に自らのナシオナリテを存続させるという)という共同観念 またはブルグンド宮廷の国家=民族存続の優位という共同観念の それぞれもとに 対関係時間が 不成立に終わり いづれか一方が ついえてしまう。
これら二例においては アウグスティヌス原点としての《 Amaterasu = Susanowo 》統合連関が 確立し得ていないという一点に起因するか 逆に言えば 《 Amaterasu - Susanowo 》分離連関が まだ地域閉鎖的なかたちにのみあり 一社会形態として確立し得ていないことを物語る。
《 Amaterasu - Susanowo 》分離連関が はじめに固有に成立していても それがやはりまだ地域特殊的なかたちにおいてのみある例は
《オホクニヌシ‐スセリヒメ》類型
であろう。それは オホクニヌシ自治態勢(イヅモ共同体・またそのムライスム)が 一社会形態の次元と いまだしかるべき連関を形作っていないという一点にかかわる。社会形態というのが ナシオナリスム共同観念を持ちうる国家の次元であり ヤマト国家との対立・つながり・連関の関係を まだ築いていない段階を言う。

  • 古事記の記述じたいは オホクニヌシの祖であるスサノヲが イヅモ共同体を アマテラスの天つ国と ナシオナリテ連関を保ったかたちで 築いたとなっているが それは 推測するに ヤマト社会形態を 記紀体系・律令体制として確立したのちに 遡及的に 現代としての世界観の中に織り込んだものであろうと捉えられる。
  • 言いかえれば 
    • 《オホクニヌシ(王または王子)‐スセリヒメ(姫)》対関係形式
  • という言わば前古代市民的な類型は 古代市民的な記紀体系の中に――および 後に見ようとするように 記紀のシントイスム(神道)ないしコンフシアニスム(儒教)のほかに ブッディスムというスサノヲイスムをも容れた源氏物語の世界の中に―― 止揚されて生きる。
  • さらに 古事記の叙述の順序にのっとって言いかえるなら その社会形態の成立形式の是非を別としても オホクニヌシ(=スサノヲ)圏のアマテラス圏への《国譲り》また《天孫降臨》に到って はじめて 社会形態におけるナシオナリテ(=市民かつ公民の権利)としての
    • 《対関係‐共同体関係》連関が
  • 成立するとともに 対関係領域じたいとしても 全面的に解放されたかたちの中に その愛の過程が実現しうるものとなったと見うる。日常性としての・市民生活としての スサノヲイスムが 古代市民のかたちに関する限りで 実現しうるものとなった。
  • このような意味で およびこれから見ようとするような意味で 源氏物語の対関係の形式は 特にその社会的な土壌の面で そのものとして 対関係の古代市民的な完成形態を内に宿し また 西欧的な《アベラール‐エロイーズ》類型にも――それぞれの社会体系を相対化して見る視点のもとに―― 匹敵しうる次元を持ち 現代から見て この光源氏類型は――生産=経営行為様式の未来形態への移行という展望・条件のもとに―― 止揚されるべきであっても ないがしろにされるべきではない時間領域を持つと見てよい。
  • なぜなら 光源氏の対関係類型は そのはじめの基調として あのニーベルンゲンリートまたはアイネーイス物語り体系の中にも見られた
    • 《前〈アベラール‐エロイーズ〉類型》
  • から自由であり 言いかえれば 主人公は 《うちつけのすきずきしさなど 好ましからぬ御本性にて》あると 作者・紫式部によって措定されたことに その根拠を求めうるからである。
  • 重ねていえば 源氏の対関係類型には 《シャクンタラー》の大団円(ハッピー・エンド)は 象徴的なものとして 必ずしもなく また 《ヘレネー》の綜合過程 Synthesis も それとしては 描かれず あるいは 《アベラールとエロイーズ》の信仰(共同主観)の提示も見られるべくもない しかも そこには 潜在的にδυναμει はじめにわれわれの掲げたアウグスティヌス原点――《エロス的人間》――をはずさない時間領域を持つと言わなければならないからである。
  • 源氏の対関係の世界が のちに指摘することだが すべて欠陥から自由であるというのではない。むしろ 帚木の章のあと展開する物語りは もういやらしいと言わなければならないか それとも 大したことがないかである。しかも この類型は 共同観念の民族原形式(日本教)から むしろ基本的に 自由であるのであって この一点において 現代および未来に向けて むしろ顕揚されるべきものと あらかじめ 考えることができると思われる。民族の原形式から自由だというのは たとえば少し思い入れをして述べるなら 源氏類型は 《オホクニヌシ‐スセリヒメ》のハッピー・エンド類型を 止揚する地点に立つのであり のちにも見るように 
    • 《〔イヅモの〕オホクニヌシ‐〔越(こし)の国の〕ヌナカワヒメ》関連
  • という政治経済学的な支配関係の類型からも自由である。要するに 国家という社会形態が それとして 安定してきたという単純なる情況のことでもあるが そこにおいて 古代市民の類型以前のオホクニヌシ類型(それは 部分的なのだが)を 超えてきた地点にある。
  • 日本教の原形式としての・または そのもとにある《オホクニヌシ‐スセリヒメ(嫡后)》対関係が それとは別個に 
    • 《オホクニヌシ‐〔因幡の〕ヤガミヒメ》関係
    • 《オホクニヌシ‐〔高志(こし)の国の〕ヌナカワヒメ》関係 その他
    • 《オホクニヌシ‐〔胸形(宗像)のタギリヒメ / カムヤタテヒメ / トリミミノカミ》ら
      • (これらは 実は 原形としての共同体関係をも すなわち単純には ムラとムラとの結婚なるインタムライスムとして 内包しているのであろう)
  • とのそれぞれ対関係を持ち 互いに錯綜していることが 一方にある。他方には Amaterasu およびSusanowoの連関体制――ナシオナリスム共同体関係――が確立され その意味では開かれた日本教となった共同観念のもとに 光源氏が――じつは 臣籍に降下した者つまりは Susanowoïste として―― さまざまな好色による対関係を結ぶことがある。これら 両者・両面は 同列に論ずべき問題ではないと とりあえず 考えるべきであろうからである。前者は 国家成立の以前のその意味で 前古代市民の問題であり 後者は それ以後の古代市民の・そして公民のからむ問題である。
  • この意味で 逆に 市民社会 société susanowoïste の論は 社会形態 état amaterasu-susanowoïste の成立を前提としており 同時に 当然のごとく 同次元において 論じられるべくもない。言いかえれば 国家なる社会形態は 市民社会の直接の行為主体ではありえず――つまり それが市民すべてになり代わって 一般に 価値の所有主体であるのは 第二次的な・もしくは例外的な事態であり―― 市民社会のために ただ その環境の整備をなす主体でしかない。もっとも このことが 逆に 市民社会にとっての制約となるモメントであり その意味で 市民社会学の相即的な前提となる領域であることも やはり言うまでもない。(この点を ここでの直接の考察対象とするのではない。)

(つづく→2006-07-11 - caguirofie060711)