caguirofie

哲学いろいろ

#1

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

序 光源氏における対関係の形式 (1)

――市民社会学 Yasirologie の諸概念――
人は 愛欲および愛から始めるべきである。
生産の形式(関係)および内容(ちから)は エロス’ερος (生およびその愛)から 出発すべきである。
人は他者との関係において表わすその力を はじめに 動物と共有している。愛の原理(はじめ ’αρχη )には 《三位一体 Trinitas 》論が横たわる。その意味においてである。(補注・1)
かくて われわれの市民社会( Yasiro; société susanowoïste; Susanowoschaft )論は 愛から入る。
愛とは 孤独であり 孤独関係 または 孤独の時間の発進であり それは 企業 Unternehmung を形成する。ここでの企業とは 人生における事業――すなわち ブッダの説にいわゆる《出世 lokottara 》(補注・2)――を 考察の中心に据える。現世――という有限なる世界――に 出自する存在は 総じて 愛を語る。愛を語って 優れた体系は ここで 《源氏物語〈1〉 (岩波文庫)》である。
たとえば 《アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1)》(補注・3)を想え。かれらが 有限なる――が故に 自律する――愛を 語ったか。両人の愛の世界が 有限なる出世の立脚点を 語りえたか。しかるに 源氏物語は すぐれて愛のディナミスムを 解き放つ。
たとえば 《シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1) Sakuntala 》(補注・3)を想え。このヒンドゥーの愛の世界が 動態的過程を語りえたか。しかるに わが源氏物語は 《出世》の革命的過程を 示す。そして そのヒーローの滅びを。

シャクンタラ

少年:あたいを放して。お母さまのおそばへ行きたい。
:坊や 余と一緒に 母御を迎えるがよい。
少年:あたいのお父さまは ドゥフシャンタさまで そなたではない。
:(笑みを浮かべて) この抗議が かえって余に確信を持たせるわい。
   その時 シャクンタラー 登場
シャクンタラ:(熟慮して) 姿を変える時が来ても サルヴァダマナの護符の薬草が そのままになっていると聞いても わらわは自らの運命に 何の望みも持たなんだ。とはいえ ミシュラケーシーさまがわらわにお話しなされたところによれば これもまたあり得ること。(と言って歩き廻る)
:(シャクンタラーを見 喜びと悲しみとをもって)ああ ここにシャクンタラー姫が
灰色ごろも 身にまとい 
苦行のはての 面やつれ
黒きみぐしも 一束ね
むごくつれなき わがために
長き別れの 戒律の
誓い清らに とげたもう。
シャクンタラ:(後悔に顔色の変わった王を眺め)この方は わが背の君ではありませぬ。そしたら 魔除けの護符を身につけた わらわの子を抱きしめて 汚しているあの方はいったい誰なのかしら。
少年:(母親に近づいて)お母さま ここにいる誰かよその人が あたいを息子と呼んでいます。
:姫 余がそなたに加えたむごい仕打ちも 仕合わせな結末を見ることになり申した。さればいま余は そなたに見識っていただきたいのじゃ。
シャクンタラ:(独語)わが心よ しっかりしなさい。前にはわらわに敵意を示した運命も 今は嫉妬をすてて 同情をよせている。これは正しく背の君さま。
:〔・・・〕
(Kalidasa: Sakuntaka 第七幕 大団円)

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

 

ここでは シャクンタラー姫とドゥフシャンタ王とのあいだの孤独関係の時間が いわゆる否定(二人の別離)の否定を得て 一つの弁証法過程をたどる。しかも その終末=スタートへと回帰する一過程の示されることを想うべきである。

Abélard et Éloïse

私があなたに関してどんなに多くのものを捨てたか また世に隠れないあの無類の暴行が私からあなたを奪い去ると共に私自身をもどんなにひどく破滅させたか また損失そのものよりも損失の手段 方法がどんなに私を苦しめたか これらのことを いとしい方よ あなたは知っておいでですし また世間の誰一人知らない者はございません。
しかし 苦痛の原因が 大きければ大きいだけ 慰めの対策もそれに比例して大きくなくてはなりません。けれども私は 他人にではなく あなた御自身に慰められたいのです。あなたが悲しみを惹き起こした唯一の方なら 慰めを与える唯一の方もあなたでなくてはなりません。
事実 あなたは私を悲しませ 私を喜ばせ 私を慰めることのできるただ一人の方なのです。それにあなただけがそれを私になさる責任を負っていらっしゃるのです。殊に私は あなたの御命令なら何でも盲目的に果たして参ったのですから。あなたの御命令のためなら 私自身を滅ぼすことさえ厭わなかったのです。どんな点でもあなたに抗(さか)らうことのできない私でございました。
(第二書簡 エロイーズからアベラールへ)

アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1)

アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1)

かつてこの世において愛し今はキリストにおいて一層愛するエロイーズよ 私は論理学の故に世間から憎まれている。すべての難癖をつけようとするよこしまなかれら 他人を破滅させるためにのみその智恵を用いるかれらは 私をば 論理学においては立ちまさっているがパウロに関する解釈においてはひどく間違っていると言っている。
・・・
私は父と子と聖霊とを つまり本性上一なる真の神を信ずる。
神は位格(ペルソナ)において三位を許容し給うが 実質(スブスタンティア)においては常に一体を保持し給うのである。
私はまた子がすべてにおいて 意志において 働きにおいて 父と相等しいことを信ずる。・・・私は聖霊もまたすべてにおいて父と子とに同質で且つ相等であることを証言する。・・・
・・・この上に私は安住し 此処から私は確固たる希望を摘み取る。・・・
(第十二書簡)

ここにも われわれは シャクンタラーと同じ弁証法過程の流れるのを見るべきである。愛の行為主体にとっての《出世》 もしくは 愛が複数の主体から成るとすれば 対(つい)関係としての企業 projection (実存)が 一弁証法過程を――あたかも 無限に――構成して流れようとするのを。
これらに対しては 源氏は――同じ弁証法過程を語っていようとも それを―― 有限なる自律性のもとに語る。ヘーゲルの言う《どうでもよさ Gleichgültigkeit 》または 《偶有性 Akzidens 》(補注・4)のもとに 《色好み》の関係過程として 語る姿勢を変えず保つ点を 摘出しうる。
帚木》の冒頭部分――。

光源氏 名のみことごとしう 言ひ消たれ給ふ咎多かなるに 《いとど かかるすきごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名をや流さむ》と しのび給ひけるかくろへごとをさへ 語りつたへけん 人の世を憚り まめだち給ひける程 なよびかに をかしきことはなくて 交野(かたの)の少将には 笑はれ給ひけんかし。
まだ 中将などに物し給ひて 大殿には たえだえまかで給ふ。《忍ぶの乱れや》と うたがひ聞こゆる事もありしかども さしもあだめき 目馴れたる うちつけのすきずきしさなどは 好ましからぬ御本性にて 稀には あながちに引きたがへ 心づくしなる事を 御心に思しとどむる癖なん うちまじりける。
(帚木 冒頭――光源氏の人となりと作者の前口上――)

源氏物語 全6冊 (岩波文庫)

源氏物語 全6冊 (岩波文庫)

 
“The shining Genji": it was almost too grand a name. Yet he did not escape criticism for numerous little adventures. It seemed indeed that his indiscretions might give him a name for frivolity, and he did what he could to hide them.
But his most secret affaires( such is the malicious work of the gossips ) became common talk. If, on the other hand, he were to go through life concerned only for his name and avoid all these interesting and amusing little affaires, then he would be laughed to shame by the likes of the lieutenant of Katano.
Still a guards captain, Genji spent most of his time at the palace, going infrequently to the Sanjo mansion of his father-in-law. The people there feared that he might have been stained by the lavender of Kasugano. Though in fact he had an instinctive dislike for the promiscuity he saw all around him, he had a way of sometimes turning against his own better inclinations and causing unhappiness.
(translation by Edward Seidensticker )

源氏のまわりには 出来心による恋へのひたぶるさ(《うちつけのすきずきしさ》)が 横行していたと言う。そしてかれは それを嫌い 止むを得ず大方の期待に反してでも 自らの好色を まずは猶予していたというのである。
ここには 端的に言って シャクンタラーとドゥフシャンタ王との間の孤独(非孤独)関係 その過程におけるような《大団円》は 見られがたい。また エロイーズのような女性の側から見たその対関係の過程もさることながら かのじょの相手であるアベラールの側に立って かれが エロイーズとの私的な対関係を世間から非難されるといったことと そしてここで源氏が さまざまに周囲から噂されるといったこととは――事の本質から言って 実は それほどかけ離れたことではないにかかわらず―― 明らかに そのそれぞれの対関係のその社会の中におけるあり方は 異なる。
ひとことで言って 源氏における愛は 対関係への投企(企業 projection; 実存)として 有限である。その意味で 《どうでもよさ》の中に 自律している。そこに むろん――後に見るように―― 過程がないわけではない。しかし 源氏は ある面で シャクンタラーのハッピー・エンドからは 自由である。かれは アベラールのように 信仰告白をなさない。ただ 対関係の発進またはその絶対的な継続はこれを 時に嫌い それつまり《心づくしなる事を 心に思しとどむる癖なん あやにくにて さるまじき振舞ひも うちまじ》っていたというのである。サイデンスティッカー訳(《 a way of sometimes turning against his own better inclinations and causing unhappiness 》)とは違って それは――信仰箇条を唱える代わりに そのように 自分の意にそわないことをも内に引き受けることによって―― いわば 不愉快の自治とでも捉えるべきそれのみが 基調としてある。( a way of sometimes turning against the world following his own feelings inside his heart until to the end and in this way causing unhappiness.これは 傍から見ると むっつり助平とよぶような状態に見えるかも知れない。)
むろん アベラールの国に 不愉快の自治が ないというのではない。対関係としての愛の その猶予がないのではない。シャクンタラーのハッピー・エンドに かのじょと王そしてその息子とのあいだに 自律性がないとしない。あるいは逆に 《三位一体》の信仰が その国以外のところで 無縁だというのではない。愛のハッピー・エンドが 源氏に 無縁だというのではない。ただ すべてを端折って言えることは 対関係の停滞的動態性(ほぼ停滞性である) その意味での有限なる自律性 このエロスの形式は 源氏に固有のものだということである。
この対関係の世界が 生産の形式および内容(つまり要するに仕事・余暇・生活)から無縁であるはずはなく その意味で われわれは この市民社会の学を ひとつの固有のジャンルとし説くことができ またその原論を始めるにあたって このようなエロスの形式として現われた局面から 入っていくことができると思われる(補注・5)。
この小論では 源氏物語に現われた光源氏をめぐる対関係のいくつかの形式を取り出し 物語に沿って 市民社会の基本的な動態過程を 考察しようとかんがえる。なお 副題の《観念の資本》についても 次の補注を参照してほしい。)
(つづく→2006-07-10 - caguirofie060710)