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哲学いろいろ

#32

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて―― (32)

社会主義が出たところで ここで マルクスの思想を取り上げるのが よいと思う。それによって 二種の平面の交錯する現実を 問題解決の展開過程として 議論することができると思うからである。なお われわれの戦い(旅)にとっては 井戸端会議が 基本であった。また まだ それは 世界の解釈であるから 現代における われわれにとっての バルカン放浪である。ただし問い求めの場は すでに見出したと言おうということであった。

  • なお 冒頭に整理した議論に 若干の註を施しておきたい。

無効の法現実が 実効性をもつという点について。
法は 《殺すなかれ》とおしえているのであるから 戦力をもつことは 法律のもとに合法であれ また 違法であれ 無効である。そして このように議論(問答)することは 場の現実的な有効性を 一つの基準としていることである。このとき 有効性の基準が 単なる道徳的な規範にならないためには 現実と超現実 ないしは有効と無効との混在する全体現実について 問答をくりひろげ これを実践に移すことが 展開過程である。一般に 核兵器の出現によって 世界自治は このような新しい段階に入った。したがって 日本国憲法の第九条と 自衛隊の存在との問題も この視点の中にある。
以上は 《無効な法現実が にもかかわらず 実効性をもつ》ことの 一例である。
もう少し この視点を 積極的に 問題展開の過程そのものとして とらえようと思えば 同じこの命題を それは 《法の有効と無効とが 全体の場として 混在している》と言いかえて 次のように。
同じ一例としてだが 上に復習した理論の中で 《内的な階層構造どうしの種的二角関係において 互いの平面が交錯するような矛盾によって 類関係(矛盾の歴史過程的な解決のことである)が 成り立つ》というとき しかるに 資本一元論による社会現実では この《種差》に 無関心となり これを 無差別にして 一様な同一平面の世界としがちだと述べた点に対応して。
経済学で 《無関心の法則 law of indifference 》とは 一物一価の法則を言う。
市場が 世界史的に 同一種の平面となり――誰が 事業をおこなうにも この外的な同一種の平面を 衣のように着なければならず―― 資本一元観のもとに 商品の値段が およそ 一義的に決まることである。これは 一方で 実際には この理論(事業論としての資本主義)のとおりに 現実化するわけではなく 他方で この理論は 資本の再生産を至上命題とすることにより これによる《むさぼり》と一体であるとするなら それは 無効であるが この無効な事業論は 現実に 実効性を有している。
これに対して 積極的に問答を展開させようと思えば この《有効と無効の混在》という現実の場は つまり言いかえると 《無効な法の 実効性》ということは そこに同時に 《有効性の 基準》が はたらいていることだと言おうと思う。つまり この積極的な議論展開の中の 一方でネガティヴな側面は 上に述べたように 無効な法理論が 他の別種の法理論(それは 事業論としてである)を まったく排除してしまうとは思えないことであり 他方でそのポジティヴな側面は このネガティヴな側面の有効性のゆえに 法の無効が 実効性を有するものにほかならないと見る点にある。

  • どちらも ポジティヴなようであるが。

無効な法理論は 一般に社会現実を だから外的に 同一種の一様な平面にしてしまいがちだが この外的な種の一様性は 実効的であるも この実効性のゆえに 成り立っているのではなく 基本的に種差から来る法の有効性(これが 別種の・別様の 事業論・法理論を 形成するよう はたらく)のゆえに 暫定的に(と言っても 一時代を画して 長い期間にわたってであるけれども) 社会現実の外的な一部を 実現させている。これは 問答の以前に 経験現実 だから法現実じたいが その中に 有効と無効の混在(つねに そうなのである) またはあの現実と超現実との相克を そのまま 過程させていると言ってよい。
だから 一般的に言って 種差の無化を 無関心・無差別によって はかる法理論

  • それは 事業論としての資本一元論にかぎらず 愛欲論としても 試みられるだろう。つまり 無関心の法則に立つ愛欲論は 愛欲の・ないし家族の 複岸性・多元性を主張してくるだろう。この法理論のもとに 性の自由な解放などということが 叫ばれる。

このような法理論・法現実は 無効であり 無効であるが 時に暫定的に 実効性をもつことがあり なおかつ この無効な法の実効性は それが 国家なら国家 権力なら権力 また 資本主義という経済の場ならこの場によって 経験現実として 種差の存在 という有効性の基準(それは 内的な階層構造から来る)にもとづいて 過程的に実効しているのである。
無効が 過程的に実効しているというのは 有効と無効との歴史的な混在にほかならない。
きわめて積極的に言いかえると 無効の実効性は つまり無効は 内的な階層構造の平面二角関係における種差の無化 としての無効なのであるから この人間が 有効に存続するかぎり つねに 滅びる運命にある。無効はおよそ その死に至って 滅びる以外に その行き着く先はありえない。言いかえると 無効は したがって 潜在可能性として はじめの時点で 死んでいる。
もちろん だから 無効と言うのであるが かんたんにまとめて言えば 《馬が合う・合わない》に 無関心であることは 人間の階層構造の死である。無関心が 人間の死であり 無関心とは 幻想によって 種差を無差別とすることであり そのように超現実の一点張りによって むしろ自己の愛欲を 複岸的なものとし 事業論においても 《むさぼり》を開始することである。種差( difference )とは 時間(そのような過程的な間隔)のことであり この時間の遅延が 今度はむしろ 将来すべき問題解決を秘めて 種差の二角関係を 類関係とするのである。類関係の潜在的な成立は 有効性の基準である。
事業論における種的平面関係は 基本要因として 二角協働関係であるから つまり労働・時間にもとづいて そうであるから この協働する二角に その時間過程的な第三角としての利潤が 生成する。これは あたかも 愛欲の二角関係たる家族に 第三角としての子が 誕生するのと同じようであり これらの種関係(事業論の および愛欲論の)は 有効にして 類関係をなすであろう。
この種関係ないし類関係は 種関係関係であり――つまり 事業論においては そのまま 種関係の種関係 ないし基本種関係の社会的な連関であり 愛欲論としては 自己の家族論と他者の家族論との種関係 つまり やはり一個の家族という種関係の社会的な連関の場であり(これによって 家族論は 非家族の論を含む)――このとき 一般事業論は 資本多元論をとるであろう。皇帝一元支配論ではなく 市民による多元的な共同自治を 一般的な基盤とするであろう。
なお 《家族》は 永遠の三角関係という意味で 一般にも使われる《家庭》という言葉のほうが よいかも知れない。つまり 上位(前世代)の三角関係 中位(当世代)の三角関係 下位(後世代)の三角関係 これらの歴史的な連鎖は 家族関係であり これを あの場としてみれば 場の継続性の観点をも容れて 家庭と言ったほうがよい。バ(場)とは ニハ(庭)の縮約形( niwa < niha < nipa > npa > ba )である。


《労働(仕事)》とは 孤独の外的な展開・その現実性もしくは時間性のことである。
これを狭くとれば 広義の労働としての事業(企業・資本の再生産)の中におこなわれる 《狭義の労働行為》としてとらえられる。この労働行為は 労働の二角関係(協働)の一定の連関態としての《組織行為》と そして この組織的な労働の《経営行為》との中にあることになる。

  • 組織行為は 協働生産態勢の或る秩序としての その意味での階層構造である。

もちろん 資本一元論とは この経営者が――または 経営態勢の所有者が―― 一元的な支配者としての皇帝であることか または 基本主体たる二角協働関係のために 資本を再生産していくのではなく 資本の再生産(ないし その利潤たる第三角価値)のために 一元的に 協働二角関係を――《むさぼり》つつ――利用することである。
資本一元論でも すでに 利潤たる第三角の価値の生成を見ているのであるから 基本的には これは 有効である。ないし 法が法である第二の局面に立っている。
《むさぼり》つまり不法によって おこなうなら 無効である。無効が 実効性を有するとき 有効と無効とが 《発展(問題解決)》へとみちびかれつつ 過程的に 混在している。
多元的な資本論は この《生産=経営=組織》の態勢が 家庭を基地とした労働=協働の場(これが つねに 動態)であることを 一つの有効性の基準としている。家庭を基地とした視点を 一つの経営方針として 社会現実の中の家族間関係 の種差を 有効に 展開していくならば これが 類関係なる社会となっている。だから そこに 第三角価値が生じているであろうから これの分配を 一生産態勢の内外をつうじて 有効に 目指していくであろう。企業内の第三角価値の分配と 企業外の(企業間の)それの配分と。
特に 後者の配分は 社会現実の全体的な視点に立った社会科学が 理論づけをおこなうのである。
この資本多元論は 内的な階層構造の自由な発現――あるいは 内的な・および組織的な人間の信頼関係――のもとに 実現していくであろう。つまり 基準としての有効性とは ――なお 抽象的ではあるが――この自由とか 信頼関係が その目安であるだろう。

  • 内的な階層構造とは 要するに こころのことである。

そして なぜなら 事業論をこのように 抽象的に議論するというのは 既に資本一元論が いま支配的であると思うが その社会においても 一つに 上に見たように 人びとは 第二の自由な局面に立っているのであり もう一つに いわゆる社会科学も 存在している――しかも この資本一元論に立つ社会科学においても すでに 福祉社会ということが 言われ 実行されつつあるのだから たしかに 家庭論を 基盤としていると見なければならない―― ゆえに あとは 人間の動態的な階層構造の解放 その自由な発現が 基本的に 社会全体の井戸端会議において 争われるべきであると考えるからである。
どうすれば そうなるか。内的な階層構造の問題であるから おのおの自己が 自己に 問うべきである。また このような個体 ないし 平面的な種関係の領域で いまは 問答を展開している。ここでは テオドリックを問わない。
労働観というものがあるならば その歴史的な流れを かんたんにみてみよう。
(つづく→2006-06-11 - caguirofie060611)