caguirofie

哲学いろいろ

#7

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (7)

    ***
ふたたび アウグスティヌスによれば このテオドリックらの行為は 一方で 消極的に 擁護される面があると言ってよいかも知れない。ただちにこの議論に入りたいと思うのだが まず次のような よく引きあいに出される考えに照らしてである。

もし何ものかを欠くならば 国家というものは 盗賊のむさぼり行為とほかならないではなかろうか。なぜなら 盗賊団も かれらが むさぼりに際して 指導者を持ち そのもとに ともに共同行為を誓い 戦利品は かれらの法によって分けられるのなら それは 小国家でなくて 何であろう。
だから かれらが もしその気をもって拠点を確保して定住し 都市〔国家〕を築くまでになるなら たとえ隣国をむさぼろうとも かれらの政府は もはや盗賊団とは呼ばれないのであって 自他ともにみとめる国家の名を称するにいたる。しかもそれは かれらが それまでの行為をやめてしまったからではなく 同じくそうしても 法をふりかざして 不法を咎める(咎め切る)者が いなくなったことによっている。・・・
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3) 4・4)

このあと よく引用されるアレクサンドロス大王と ある海賊との問答〔――それはつまり 海賊がアレクサンドロスに向かって

同じことを 小さな船でやれば 盗賊と呼ばれ 大艦隊でおこなえば 皇帝とよばれる。

との意味のことばを 返すものであるが――〕がつづく。が まず 上のひとまとまりの文章からは テオドリックに関連して いくつかのことが言えると思われる。
第一には 最初にも触れたように この視点から見れば いくぶんテオドリックらゴート種族共同体の行動に いわゆる一つの筋は 見出せるかも知れないということ。特には生存の問題として考えられるであろう。――ただ だからと言って テオドリック個人として みづからの内に 何らかの思想の転回と展開が伴なわれなかったかというと そうではないだろう。そう短絡できない。あるいは ただし テオドリックらが もし例の海賊のように ローマに捕らえられたとしても その時 ローマの咎めを受けて それに対して わざわざ《同じことをやっていて ゴートの行動だけを 一方的に 不法と呼ぶのは 納得できぬ》などと答えるとは 到底 思えない。なぜなら 幸か不幸か あるいは 事の善悪を別として この時点ですでに テオドリックは 自身が ある意味で 国家をよそおっていると思われるからであり――もしそうだとすれば そうであるのであり―― また このことが 不法を法としたことの意義であろうと言わなければならないということ。この第一の点は 文明世界における国家の視点とも 連続している。むろんわたしは テオドリックがやったこと自体 よかったとは言わないし 逆に ここでただちに そもそも国家〔という視点〕が 絶対的に わるいとも 言えない。
第二に言えることは やはり今一度 時代の制約とみられるものを そのかぎりで 指摘しておかなければならないかも知れない。すなわち この上の一節〔だけ〕からは あたかも いつのまにか隣りに ある国ができれば もはや隣りあった国どうしに 共通の法は なくなっているというかのように 響いてくると見られる点についてである。この限りでは われわれは現代において 何度も のべるように 法を 国家を超えて 持ちつつあるという点について 時代の開きを持っているということ。
とは言っても この時代において アウグスティヌス自身は 当然 この開きを その視野におさめていないわけではない。たとえば それ自身有限である《世界の自治》というとき それは ある一つの国家内でのものであると同時に 諸国家間のそれでもあると思われるから。
最後に 第三に言えることは 冒頭の語句すなわち 《もし何ものかを欠くならば・・・》と表現しておいた箇所についてである。じつはここで お断わりをしなければならないのだが それは 原文では ここは 《何ものか》ではなく 明らかに《正義〔あるいは法〕( justice )》という語が 入るところであるから。
従って この《何ものか》ということじたいが はじめの基本的な場としての視点 もしくは 経験的な一視点としての《国家》の問題にかかわっていると言うことができ この第三点が 問題の焦点でもあることになる。
ここで この《何ものか(欠くべからざる何ものか)》というところに 入りうる語句――語句――としては さしあたって 《正義》や《法》のほかに 《国家〔の根拠〕》《世界〔共同自治の根拠〕》 また 《基本的な問い求めの場としての視点》もしくは《文明世界〔という意味での キリスト教思想の視点〕》などなどであるだろう。つまり 戦術じょうの経験的で自由な議論というのは このように むしろ はじめの基本的な場の視点と 往復しつつ循環しつつ 時に堂々めぐり(自同律)の弊とも見られかねない問題展開の過程にほかならないように 見える。われわれは むしろこれによって 結論に近づいたと見たいのであるが なお この結論は じっさいには このような議論の展開をとおして われわれが具体的に 問題の解決を やはりその過程につれて おこなっていくものとも考えられる。きわめて回りくどい もしくは逆に 虫のよい 議論であるかも知れないが いまは これをすすめてみよう。
この議論で ひとまず テオドリックの遠征に発した考察は 終わりとしたいのであるが それは 次のようにである。
《何ものか――欠くべからざる視点――》の内容を いくらかの命題として あげてみようと思う。これまでに触れた議論の整理としても。

[α] もし律法が むさぼるな と言わなかったら わたしは むさぼりなるものを知らなかったであろう。
パウロ新約聖書 8―希和対訳脚註つき ローマ人への手紙

  • ただし このすぐあとには 次がつづく。

しかるに 罪は戒めによって機会を捕え わたしの内にはたらいて あらゆるむさぼりを起こさせた。すなわち 律法がなかったら 罪は死んでいるのである。

[β] もし正義(法)を欠くならば 国家は 盗賊のむさぼり行為とほかならないではないか。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)

[γ] 世界(The sphere of politics )は 相対的で 有限なものである。この有限の領域において 世界( saeculum )は 自律〔したがって 法による〕している。
(R.マーカス(Markus):アウグスティヌス神学における歴史と社会

[δ] 奴隷制(不法)は 人間の自然性から真実に倫理的な状態への移行に属する。それは 不法がまだ法であるような世界に属する。
ヘーゲル法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)

[δ’] ・・・法の内容たる客観的な精神・・・人間は即自かつ対自的に 奴隷たるべく規定されてはいないという このことが・・・たんなる当為と解されてはならないであろう。しかし こういうことがわかるのは もっぱら ただ 自由の理念は 国家としてのみ真実であるという認識の段階にいたってからである。
ヘーゲル:[δ]の直前の文章)

  • このような国家の概念については さらに引き続き 大きな注釈が必要であろう。そして注釈が必要であろうということによって つまり言いかえるなら はじめの基本的な出発点としての場が その必要として前提されるのであれば 古い認識は 古い認識としてだが ここで 用いうるであろう。

[ε] 世界は 神の国と地上の国(それは 類比的に 《法と不法》)とが 互いに入り組んでいて むしろ その国境は 分ち難く組み入っており その見分けをつけうるのは ただ人が 終末を見とおし得たときのみであるというそのような現実のなかに位置する或る時間帯として 見られる。
(R.マーカス:前掲書)

ここで以上これらの命題を・・・
(つづく→2006-05-13 - caguirofie060513)