#19
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第三日( s ) (〔精神の形式と〕《情況》)
――それでは 《情況》ないし《社会》の基本的な前提とされることについてですが・・・。
まず この《情況》は すでに何度か述べているように ぼくたちの立ち場においては ナラシンハさんの言うように 家族だとか国家だとかの両極に分け そしてそれらを両軸として 自己の行為を形成するという意味での《情況》ではなく 寧ろ《自己》対《情況》としての《環界》の全体のことですが。
そこで そこからそのまま帰結されることは このような《環界》は 非《個別性》としてあるのだから そのように直接性としては《個人》とこの《環界》とは まったくの疎外関係にあるということであり
また この認識からは すぐさま 《個体》としての行為においては この《環界》という情況を 《自己》のもとへ戻そうとするということ・つまり 直接性としては《疎外》の関係になったのだから 自己のもとにある何らかの対象への《帰同》という契機を持つことが 含まれていると――矛盾した言い方で――言うことができるし 言わなければなりません。
《特殊性》の獲得は 自己のもとにある何らかのものへの《帰同》に発するであろうし 《疎外》関係にあるものに対して この《帰同》のちからは 及ぶ。直接的な疎外関係を 帰同に戻すというのではなく いわば自己帰同によって 疎外関係つまり情況に対して 《闘い》が始められ その疎外関係が動き 新しい〔それじたいとしては〕疎外関係が 形成されていくだろう。自己帰同した個人どうしは 疎外関係=情況をとおして 普遍性を 獲得する・ないし 目指してすすむ。
つまり 類としての存在 への過程をすすむだろう。環界たる情況を その意味で・その形で ぼくたち個体は 利用していくことができる。
次に そこで このかんたんに言えば 情況を自己のもとに帰同させること――より正確に言えば 自己帰同した人間が 情況の疎外関係を利用して なお自己帰同〔の形式〕を形成し発展させていくこと――には 二つの形式ないし方法が 経験的に 考えられます。この形式ないし方法論が ぼくたちの考える《社会》というものの基本的な形態ないし様式です。それは 次の二つです。
つまり 《情況》の 《自己》への 《帰同》にかんしては 一方で 《自己》の存在の中に見出される《普遍性》というものへの そのままの《帰同》があり もう一方では 同じく《自己》の中に見出される《個別性》への《帰同》(むしろこれによって 《普遍性》につらなるという考え方)が 起こりうると思われ そうして この二つの《帰同》の様式をもとにして それぞれ二つの《社会》的な形態が 現われ出るものと思われます。
すなわち その形態としては 具体的に まず後者のばあい・つまり 《個別性》への《帰同》をとおして《個体》が――普遍性として――獲得されるという場合は 個別的な《身分》に分かれた《社会》が 概念としても 形成され たとえば 《貴族制》(有徳者による身分制)が そこから 現われる。他方 前者のばあい・つまり 《普遍性》への《帰同》からは 従って 逆に 非身分社会・平等社会の概念が 形成され たとえばそこからは 《民主制》(非身分的な平等者制)が 現われる。
すなわち さらに言いかえて 次のようです。つまり 《特殊性》としての《個体》獲得においては 類型的に言って 二つの《帰同》の形式が 考えられ 一つは 個別性の中の 現象的・部分的な一般性――つまりそれは たとえばアレクサンドロス大王の《武勇》というように〔なぜなら 《アレクサンドロス》は 《個別的》であるが 《武勇》は《一般的》である。そのように〕 通常 《徳》あるいは《優秀性》と呼ばれうる《個別性の中の一般性》に《帰同》するばあいが それです。
もう一つは 個別性の中の 抽象的・全体的な一般性・つまりいわゆる普遍性――たとえば アレクサンドロスもディオゲネスも 現象として個別的であるが 抽象的にはそれぞれ人類のひとりという普遍性において その武勇もその智恵も それぞれ潜在的には ともに差異はないというような普遍原則――に《帰同》する場合が それです。
前者は 一般に 《徳の多寡によって 〈身分〉の差が現われ それの現われている身分社会》を形成し 典型として 《貴族(優秀者・有徳者)制》があげられるであろう。そして後者は 一般に 《原則としての平等社会》を形成し 典型として 《民主制》(一人ひとりが主権者であるという)が挙げられるということになります。
もう少し これら二つの形態に触れるならば まず 個人の《普遍性》は 当然 時と場所を問わず 普遍的であるので それへと《帰同》するということは 歴史の変遷にかかわりなく つねに 顕在的にせよ潜在的にせよ概念づけられていて 指摘されうる一つの契機であり 従って その意味で 《非身分社会》・その代表としての《民主制》は いわば歴史の経糸です。しかし かと言って 《個〔別〕性》というものは かれが 《普遍性》へと《帰同》するときのその仕方においても 現われるものであり・また現われなければならない という意味でも その《個別性》をつうじて 充分にかれは その《個体》という《特殊性》を獲得しうるとも 思われる。つまり それは 《個別性》の中の特に秀でた《優秀性》であり《徳》の問題である。
もし 《非身分制的・民主主義的》ということが これも《徳》だと考えられるなら しかしこの徳は 或る一人の・あるいはさまざまな人びとの それぞれの個別性ないし特殊性をつうじて 現実に有効であることを欲する。そして この《有徳者》を中心として《情況》も その形態を 古いものから新しいものへ 形作りうると考えるのが 経験的に 議論の焦点でなければならない。その限りでは この《個別性》〔の一般的でありうること〕も 一つの契機として 作用するものであり それは 歴史が その時 どんな情況・どんな形態を呈していたとしても 言うならば 一方で 《経糸としての民主化》の契機が 情況の空間にひろがるに応じて・しかもさらにその広がった結果をも 固定させ安定させるように 他方において作用するであろうと考えられる。
その意味で この個別性ないし徳によって形成される《身分社会》・その代表としての《貴族制》は 歴史の緯糸であると思われます。
この《貴族(優秀者・有徳者)》というのは 制度的な集団・階級的な制度を言うのではなく 《個別性》の問題として言っていることになります。そして 経糸と緯糸とを それぞれ 契機と見るならば 《非身分(民主)化》および《身分化》のはたらきとして 基本的にはつねに 互いに対立しながら 《情況》というものにおいて現われ 互いに 綯い混ざり合って作用しているとも 見ることができます。
あるいは 個人が情況との関係で闘うというとき その闘いとしての形式形成は 身分化という緯糸に抗するところの経糸としての民主化というものになるのだと。
さて 《情況》の一つの切断面は・従ってぼくたちの《情況》との闘いは そのように二つの社会的な契機ないし形態を示し そこにおいてあると思われますが さらにそれらが 基本的な思惟ないし理念において どのように現われ それらが互いにどのような関係にあるかと問うてみます。
まず ナラシンハさんのほうの理念の中では もう一度 整理しますと 《わたし》つまり個人ないし個体が 《情況》の中にあり 《情況》が《わたし》の中にあり 従って 《わたし》が《わたし》であるのは この《情況》の全領域においてであるということだったのですが それに対してぼくたちの側では
《わたし》は《わたし》において《わたし》であり 《わたしでないもの》においては当然《わたし》ではなく 従って 《わたし》の完全に外にある《情況》において 《わたし》はまず《わたし》ではありえない。その意味で この外界としての《情況》に対して 《わたし》が《わたし》に命ずる限りでの関係(闘いの)行為を いどまなければならない こうなるのでした。
このことは 言いかえれば 《〈わたし〉の〈神〉と 〈情況〉の〈カエサル〉とは つねに対立し抗争している》ということになります。
従って 先に《個体》は このように互いに《疎外》しあっている《情況》に対して 自身の《普遍性》そのものか あるいは《個別性〔の中の一般性〕》かの いづれかの契機へと 自身を帰同させたかたちで働きかけると述べましたが ここでは 《わたしの神》が その《普遍性》であり 《その神への帰同において わたしに固有の仕方(その徳)》が 《個別性》であるということです。ここから 《民主制》と《貴族制》とについて さらに具体的に解き明かす事ができると思います。
まず 後者についてですが この《個別性》とは 言うまでもなく 現象的あるいは実践的な意味で 精神・身体・能力〔・時にさらに血統〕において 各個人のあいだに差異があるそのことを言うわけですが そこから 社会の形態として考えられてくるのは いわゆる有徳の者には 徳の少ない者よりは 一層おおきな社会的な主体性ないし主権を見る――そこでは だから 反面で 《有徳》においては 自然本性からの疎外を 人為的に・観念的に 見ることにもなるでしょうが――というもの・すなわち 《徳の身分制》であり《貴族制》であります。
これに対する《非身分制》ないし《民主制》は 次のような事柄にもとづいています。つまり 《徳》が確かに個別性の中の一般性(その有効なものの そして時には 無効なものの 社会的な実効性)として 《個体》形成のための重要な要素であることは認めても なお この《徳》の形成におけるその思惟の対象(たとえば《神》)が むしろ 普遍性として 第一位に 尊ばれる(つまり 帰同の対象とされる)べきであるという考えから その《神》が《神》であるかどうか その根拠は別にしても その対象の前では 《個体》がすべて平等であり その限りで 徳の多寡にかかわりなく 一人ひとりが 同等に 社会的な主体であり主権者であると考えられる この理念から 帰結されるものです。
ただし 念のため ふたたび申し添えるなら 《民主制》と《貴族制》とが それぞれ別々のものとしてあるのではなく むしろ ともに一つの《情況》において それぞれの作用として ない交ざり合っていると言うべきです。それは 経糸としての民主制が 一つの情況の大枠として形成されたとしても そこにおいては その緯糸としての貴族制(身分化)が 大なり小なり作用するものであると思われる。
《非身分制・民主化》が むしろぼくたちの《形式》形成にとって その社会的な意味あいでは 根幹をなすものであるが 同時に この民主制の形成に際して 緯糸としての身分制を 作用させないものではない。つまり 普遍性として表象される民主制の社会的な実現にあたっては 個別性ないし特殊性としての徳 この徳の現象的な差異によるその意味での身分化の契機 これは はたらかないものではない。さもなければ 《わたしの神》と《情況のカエサル》とは つねに 理念的にも経験的にも 等しい同一のものとなっていることになる。
このぼくの考えに対する十全な批判としては いや 民主制は 歴史の過程そのものなのだから そこで 特別 身分化の作用が同時に はたらいているなどと 言う必要はないし 言ってはならない もし言ったとしたら それは イデアの違反だというものです。
この議論は――ぼくの考えでは―― 《神とカエサルとは 別であり この理念のもとに人間が 情況と闘っていく》という前提のもとで ただしいと思います。
ぼくの言おうとしているのは 《〈わたしの〉の神と カエサルとが 別であり その〈わたし〉が情況と向かい合って 自己の形式形成をおこなっていく》という前提のもとでの議論です。
そしてこの後者のぼくの議論においては イデアの違反も ありうると思うのです。ありうるという情況について見るときには 経糸である形式形成の根幹としての民主化のほかに 緯糸としての身分化の動きも とりあげておきたいと思うのです。
そして このような基本的な前提を踏まえた限りで いくらか述べたいと思うのですが。
まず 先ほど《〈わたしの神〉と 〈情況のカエサル〉とは つねに対立し抗争している》と一つの命題を立てたのですが ここからは・・・
(つづく→2006-04-11 - caguirofie060411)