caguirofie

哲学いろいろ

#6

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( f ) (精神の《形式》)

――[ナラシンハ]たとえばわたしの考えというのは 日常の具体的な〔倫理としての〕行為は その善悪を意識しなければいけないというよりも むしろわたしたちがおこなうその行為じしんに対して わたしたちがそれぞれの意識で 〔心情的にしろ〕その方向を向いていなくてはいけないということです。逆にいえば たとえその善悪を判断しないという場合でも わたしたちの意識自身が その行為を志向しないで しかもその行為をおこなうということは いわゆる非倫理の事柄であると思うのです。それは当然といえば当然のことであるのですが。
――もう少し具体的に述べてもらえますか。
――うん。たとえば 先ほど触れた一般慣習についてだけれど 慣習じたいを善であるとか悪であるとかと 一概に決めてしまうことはできない。しかもその慣習に従う(あるいは従わない)というとき その行為に わたしたちはあまりにも無意識であるということが ある。・・・
日常生活の倫理において 一般的に言って無意識であることは 或る意味でそれは謙虚という美徳ではあるのだけれど 反面でその無意識の行為は まったく無駄ということにもなります。さらに《無駄》が 日常性の基本的な(土壌としての)形式(イデア)であることも これは動かせない現実です。わたしたちが ものごとの直接性を無視できないというふうに その意味で むしろ今度は実際には何らかの形式という相互の関係の枠にかかわってのみ 生活しているからには そうです。しかし それにもかかわらず その形式に対して なお無意識をとおすことは その無駄が 謙虚を通り超えて まったくの無意味になってしまうだろう。・・・そういうことを思っています。
慣習が 〔つねに 善であるとか 緊張しているとかというような内容でなく〕 無駄を そのひとつの大きな内容とする・そのような《形式》(関係)から成り立っていること これは 動かせない事実です。しかもこの《形式》が 全く固定していて動かないということは また ありえない事実です。

  • 従ってその意味で 慣習・一般道徳の中の《形式》を 意識すべきだ。〔もっとも 意識しだすと これを――この道徳・おきてを――神としてしまう場合が 見られるのだけれど。

――おっしゃっていることが いま一つわからない点も あるのですが おそらくぼくなりに こういうことではないかと思います。・・・おそらく同じ一つの事柄を ナラシンハさんとぼくたちとでは 互いに異なった観点から見ているというふうに思われるのです。そして何か大きな問題をあまりにも性急に解こうとするのかも知れませんが ぼくたちの側から 早とちりを恐れずに こういうふうに応答させてください。
つまり まずぼくたち人間にとっての《善》の系列 その中で 神という最高の存在と ぼくたちの〔精神・知性・意志というペルソナとしての〕存在は すでに論じたように 《イデア》の領域ということでした。現実として《見たもの(イデア)》であって 空想とは違うと言っておかなければなりませんが この違うということを 具体的な場面での善悪の判断の基準(そのはたらき)の問題として 論議しているのでした。このイデアについては ぼくたちの側では あくまで 《精神》というものが その中心となっていたのでした。ほんとうの中心たる神は 《見たもの》というとき そのイデアは 神の背面を見るであろうといった現実の過程として捉えられているから。
つまり《精神》の内容をあらためて述べるならば そこで《イデア》とは ぼくたちの《知性》によって捉えられるものであり その捉えられたものの〔系列の中で〕最高のものであったわけです。最高という意味は 実体そのものではなく 実体(神)を分有するペルソナ(人格)という意味内容としてでありました。知性によって把握したものを 一般に《概念》とよぶならば 《イデア》とはここで 理性概念つまり理念ということになります。
つまり ここでぼくたちの言いたいと思うことは 《見られるもの・知られるもの》というイデアは ぼくたちの間では 基本的には 同じことの繰り返しですが 精神の領域において(あるいは それをとおして)知性のはたらきとか理念とかというふうに捉えられるとともに しかも実は この《理念》が ――この前もナラシンハさんから指摘されたように 単なる空虚な想像物であってはならない・また ありえないのであって―― 実在性がなければならない。また――先日の議論に出たように 人間が精神的な存在であるということの基盤に立って―― この今は《理念》〔としてのイデア〕が 実在するとすれば それはその限りで 同じく 現実的でなければいけない。つまり ここで 理念は 現実的でなければいけないという命題が現われる。
さて これだけを言って次に そうなると・・・ここからが ぼくのいま思い浮かんだという考えですが・・・以上にもとづくならば 任意のひとりの人の理念は 他の任意のひとりの人の理念とも 究極的には 共通であるというのでなくては いけない。言いかえれば 互いに通底していなくては いけない。なぜなら ぼくたちの間では このイデアの系列を 実体〔の系列〕と見ているのであって 実体が一人ひとりにそれぞれ異なるバラバラのものであってはならないからです。そうすると このとき《理念》は まさにいま ナラシンハさんも触れられたように 倫理という面において 或る意味では当然ですが そのまま登場してくることになる。つまり・・・次のことが ぼくのここでの結論ですが・・・その意味で 理念というイデアは ナラシンハさんのおっしゃる《形式》 人びと相互の関係という倫理的な形式 であるのだと。
イデアは 内には理念であり 外には形式であるのだと。・・・あるいは ナラシンハさんのお国とは別の東洋の国の言葉で 《仁》ということも聞いていますが それは きわめてこの《形式=イデア》に近いのではないか。《仁》とは 精神の《形式》の問題であるのだと。
要約すれば ナラシンハさんは 《形式》と言い ぼくたちは《理念》と言う。しかしそれは 同じひとつの盾の両面であって それは《イデア》であると。従って イデアの究極的な実在であるところの神を思うという立ち場が やはり同じ基盤に立って 主張されうる。・・・
――ボエティウス君には悪いが わたしはまだ 単なる印象を述べたに過ぎなかった。ただ それに対して ボエティウス君は みづからの立ち場をさらによく説明してくれたことになると思うが。
そう 確かに 倫理というものは つまりあるいは もっとはっきりと言って善悪の意識というものは・・・むしろわたしたちが 道徳に悩まされるというようなことさえを超えようとして 道徳として論議しないようにするためには・・・この善悪をむしろ意識している必要がある。そしてそれは 当然 自己の内と外との両面につながっているものだと思う。・・・そうだ わたしは先ほど こういうことを言いたかったのです。つまり たとえば わたしたちは その行為をなすに際して それをどう意識しておこなうか つまり その時ひとつには 単なる慣習としての倫理(道徳)に従っておこなうかどうか ということが 問題にならないことはないと思うのだが その場合 この問題になりうることを あまり問題にしないということが多いとわたしは 言った。言いかえれば そこでは 形式としての倫理に対して 意識をしていないということ。あるいは この無意識は そのまま無形式ということではなく いづれかひとつの形式を〔一般にはその環境において もっとも優勢なものとして慣習になっている形式を〕――半ば固定的に――取っているということ。その意味での無意識。
しかし ここでひとつ問題となるだろうことは このような行為の形式に対する無意識は 必ずしも その行為の目的に対する無意識を 意味していないということだろう。つまり・・・いや むしろ その目的というものに対しては わたしたちが 低次元のものであれ高次元のものであれ 欲求を感じてそれを実現しようとして行動する限りで きわめて当然に 必ず意識していると言うべきだ。・・・そうすると この行為の目的に対する〔時には猛烈な〕意識と この行為を媒介するもの(つまり手段であるが ここでは 行為水路としての慣習的・道徳的な形式 という手段)に対する無意識とは いったい 何を意味しているのであろう。
言いかえれば もろもろの手段を用いて自己の行為を その目的へ媒介するところの 環境の形式 環境としての道徳・慣習たる形式 これを 意識せず いわば中性視することは いったい どんな現実であるのだろうか。
確かに イデアを取り上げるにしても それを 自我・自己あるいは精神といったそれ自身で存在するとされるようなもの(その内容)・またその系列として ではなく つねに 他者との関係としてあるもの・つまり《形式》としてのイデアについてを 論じて行きたいのだが。
ここで いちど・・・逃げ腰になって悪いのだけれど・・・今度は 逆にきみに尋ねてみたい。というのは たとえば この形式には わたしたちが行為をなすに際して 他者との関係の上で とりあえず自己の持つ目的であるとか手段であるとか あるいは その関係じたいの立っている環境といった媒介の場 これらが 広い意味では 〔形式に〕含まれていると考えられる。そしてそのとき きみたちの側では しきりに明示的なかたちで 善悪の基準ということが言われる。そこで このような点を含めた《形式》と 《善悪の基準》とについて さらに詳しく少し説いてみてくれないだろうか。というのも やはりきみたちの〔ひとつの〕イデアの系列を知ることによって わたしたちの立ち場が むしろはっきりとわたしの中には 現われてくるようなのだから。
――わかりました。少しづつ進みたいと思います。
(つづく→2006-03-29 - caguirofie060329)