caguirofie

哲学いろいろ

#3

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

幼年

deux( a )

ゴート国王の小屋は テオドリックを囲んで しずかな時がながれていた。
ドナウは アルプスの北・黒森に発して アジアの黒海にそそぐ。ヨーロッパ大陸中央山塊を降りてしっかりと ひとすじの青い流れをかたちづくった河は 一路 東へまっすぐに伸びて ちょうど矢羽根のようにしだいに北から南からいくつもの支流を集めながら やがてひとつのおおきな街・ウィンドボーナ(ウィーン)をよこぎって やはりまっすぐにすすんでいく。
まもなく ひとつの湿地帯に進入してゆくのであるが それは 南からラーバ川が北からはヴァーフ川がそれぞれ合流するのを受けて 河がしばしば氾濫を起こすところである。そこを過ぎると とつぜん気が変わったように 右手つまり南へ直角に向きを変えてしまう。しばらく行くと アクィンクム(ブダペスト)の街をまっぷたつに割りながら しかも向きを変えたまま まっすぐ南へと流れる。だが この狂ったような気まぐれは もういちど発揮される。それは 南へと進んていたのが こんどは 支流のひとつであるドラヴァ河に出会うときであり このチロルの高地に発してやはり東へと一直線にながれて来た河に出会うと そこでドナウは あっさりと折れ ドラヴァ河のすすむ方向に合わせて ふたたび東へ流れる直線と化してしまう。
したがってドナウは 中流の付近でおおきくはっきりと階段状に折れ曲がっている。パンノニアは この階段の西側にあたる地域であり ほそながくおおきなみずうみバラトンは そのほぼ中央にななめに よこたわっていた。
バラトン湖の西岸に散在するゴートの集落に 居城はなく 王もひっそりと暮していた。丸太と藁の小屋のせまい部屋は 満員であった。
中央に 主役テオドリック かれをはさんで 国王テウデミルと王妃エレリエヴァ。炉といくらかの食物をかこんで テオドリックの妹 祖母 叔父ら親族。そしてテウデミルの脇には 異質のかおが二人 甲冑に身をかためた男と 平服の男とが 陣取っていた。ローマ帝国からやって来た使節と通訳とである。
開け放たれた入り口をとおして そとに降りた闇が 家々を包んでいるのがわかり 部屋のなかにも 落ち着いたふんいきが漂っていた。


――テオドリックが生まれたのは・・・
と傍らのわが子を見やって国王は使節に話しかけた。テオドリックは 例の出生の話がはじまるなとおもった。
――それはちょうど われわれがフン族の支配から独立をかち取ったときなのです。・・・
テオドリックは やはりそうだったとおもった。座はすでに真夜中の旅立ちに向けて なごやかな座談といったかたちで進んでいたが 王テウデミルは 通訳を介して ゆったりと語るようである。ていねいな語調は テウデミルの誠実さをあらわしていた。いっぽう テオドリックは どうしても 自分がこの場におちつかないようである。そのことを感じ始めた。王は 最後に決然として こう言った。
――・・・ティウドゥリークスは 言わば皇帝アッティラの死とともに生まれ ゴートの独立とともに この世に出たのです。ティウドゥリークスなくして ゴートの将来はないも同然です。どうか だいじに預かっていただきたい。
こんなことは ないことをねがうのですが このことははっきりとローマの皇帝につたえていただきたい。それは もしティウドゥリークスになにかあったときには われわれは種族を挙げてコンスタンティノポリスと戦わなければならなくなるということです。
――われわれの皇帝レオは ゲルマー二アのいづれのみなさんにも非常な理解をしめしております。とすぐさま使節がつづけた。だいじょうぶです。責任をもってあずかります。
自分のあずかり知らない頭の上で 自分の去就をきめるやりとりを聞くのは あまり気分のいいことではない。テオドリックは それはそれとして 放任自由のなかにいた。この場の主人公役を引き受けて 真面目を通していたが やがて顔を赤らめながらも その窮屈さを感じざるをえない。
――・・・しかし テウデミル国王 われわれのお与えする軍資金を無駄にされるようなことはないように くれぐれもご注意ねがいたい。さらにご忠告もうしあげるが たとえば他のゲルマー二アの部族と手を結んだりして わが帝国に背くようなことがあれば 即刻 王子のいのちはないものと思っていただかなければならない。
――ひとつ おうかがいしたいのだが・・・と叔父ウィディメルが 割って入った。ティウドゥリークスは いつわれわれのもとに返してくださるのだろうか。十五にもなれば もう一人前としてゴートのもとに帰してもらわねば困るというものです。
叔父ウィディメルは――ゴートの国は じっさい テウデミルとかれの兄弟が 種族を分割して統治していたのだが―― 居住地のドナウの上流ウィンドボーナから 今夜のために来てくれていた。テオドリックが いつ国にもどれるかは 両国のあいだに確約はなく いづれ成人すればということになっていた。
これに対して ローマの使節
――これまで ゴートとコンスタンティノポリスとのあいだでは たがいに同盟は信頼できるものであります。われわれの宮廷を信用していただきたい。われわれは 責任をもって テオドリックギリシャの様式で成人させてみせましょう。
とこたえて やはりテオドリックにとって帰還の日は 明確なものとならなかったのだが 同盟関係は あらためて深まる方向へむかっていくものとは おもわれた。
近年の政治情況は ローマの使節が言うようには 同盟は 必ずしも誠実に履行されているわけではなかった。また パンノニア周辺一帯として 過去にわたって 必ずしも平和な状態であったのではない。
まず 平和をおびやかすものとして ゴートは――また ゴートでなくても ゲルマーニアの各部族は―― 四面楚歌といった情況にある。
まず南方においては 特にサルマティア族との衝突がなかなか絶えなかった。さらに他の地方豪族が そのようにローマ領土内においても 皇帝への従属を断ち切って自分たちの勢力に訴えようとするうごきを始めていた。
北では おなじゲルマーニアに属す数多くの種族が それぞれフンからの隷属を脱したあと けっして互いに対して矛をおさめるわけではなく群がっていた。ドナウを境にして パンノニアの反対側の東の地ダキアには ゲピデ族が広範囲にわたって陣取っていた。やはりドナウを越えた北の地には 過去のアッティラの宮廷で高い地位を占めていたスキリ族が つねに身軽なうごきを示している。
とおくスワウィの地域からも しばしばドナウをわたって侵入する者があった。たとえばこのスウェウィ族の王フヌムンドからは かれを捕虜にしたとき 慈悲を請われ 故郷に帰してやったあと そのフヌムンドからは ゴートとは友好関係にあったスキリ族をだましてけしかけられるという仕打ちにもあっていた。
先の・ゴートとの同盟関係については その履行いかんが問題だというよりも 感情的な問題が起こったことがあった。ゴートの分派である西ゴートはすでに イタリアを通過してイスパニアに移っていたのだが その一分隊はまだ ドナウ流域に残っており それをおなじテオドリックという名の首長が率いていた。東ローマ皇帝ルキアヌスは 地理的にも近いこの西ゴートのテオドリックと友好関係を結び ついにそれが昂じた結果として テウデミルらの東ゴートに対しては疎遠となり あるいは宮廷への東ゴート使節に対して 軽蔑的な態度を明からさまに示すようになった。このとき テウデミルは すぐさま怒り 狂暴なまでに 南の帝国領土であるイリリクム地方を略奪したのであった。
ここでコンスタンティノポリスは 東ゴートの圧倒的な勢力をみとめないわけにはいかなかった。皇帝マルキアヌスは 心を入れかえて 友好のしるしとして 貢税を譲ることを申し出て 講和が成ったことがあった。ひとことで言って東ゴートは テウデミルのもとに独立の息吹きとかつての王国の栄光に燃えていたようである。
それから数年が経っていた。もともと東ゴートと東ローマとは 友好関係にあった。また皇帝も マルキアヌスから レオに代わっていた。そして 辺境防衛の資金のための貢税は 毎年とどこおりなく手渡されていた。
このような情況のなかにあって――ゲルマーニアの各種族としては それぞれその独立戦争というおおきな戦さをたたかったあと まだまもない時期にあって それぞれ種族の安定した成長を期すべきであったが―― ゴートとしては 王テウデミルがおもうには パンノニアの地を得てこれを守り コンスタンティノポリスとの同盟をあらためて結び そのむすんだ関係を それに大きくひびの入るようなことは互いに無用という方向へむけるべきだということであった。そうして 脅威を感じなければならないのは 帝国のほうにではなく むしろ他のゲルマーニアの諸種族のほうにであることは 否めないことだとおもわれた。

テオドリックは 放任自由であった。

父テウデミルは そのような政治の世界の進行が 七歳のテオドリックにわかるとは とうぜん おもわない。無理である。そしてこの反面で その理解の有無を問うことなく もはや いわば舞台のうえにテオドリックを乗せようとしていたのであり これは はじめから 乗せていたのである。ただし それ以外のことには まったく口をつぐむという考えであり この意味で テオドリックは 放任自由であった。

この結果は そうこうして自然に ややもすれば テオドリックは その何かが 舞台の上からはみ出すというほどのことであった。テオドリックのそのはみ出す動き・それの解決へ向けて問い求めること その問い求めの場じたいは やっと分かったというようであった。かれは こころが きまっていなかった。
(つづく→2006-03-01 - caguirofie060301)

VINDOBONA(now Vienna)

Vindobona grew up on the bank of the Donau (Danube) and eventually evolved into modern-day Vienna. The location was ideal for a Celtic settlement, having an abundance of field, forest, and water. There was also a convenient hill near the southeastern corner of the plain, where the Taurisci (later called the Norici) built their fort around 450 BC. The plain was surrounded by a dense forest which today is called The Vienna Woods. The area was rich in wild game and fish from the river, and the land provided good harvests. The settlement flourished and grew into a major trading center.


In 14 BC, the area was conquered by the Romans. It is they who gave it the name of Vindobona. They built a large fort on the site of the settlement. To them, this was a frontier fort, designed to protect their territory against incursions from the barbarian tribes to the north. The Marcomani and Quadi were frequent sources of trouble. Emperor Marcus Aurulius came to Vindobona to campaign against the Teutons after they destroyed the city in AD 167. He died there of the plague in AD 180. At its peak, the military and civilian population is estimated at 20,000 persons. Although it was a "frontier fort", Vindobona all the conveniences available to the civilized world of the time. Aqueducts carried fresh water from nearby springs to feed the baths and water the formal gardens. An amphitheater with seating for 6,000 was also built. When the Romans finally withdrew their forces in the latter part of the fourth century, they left the place open to a series of invasions and successions. Slovenes, Avars, Franks, Moravians and Magyars, all had a hand in the destruction and redevelopment of Vindobona.