caguirofie

哲学いろいろ

#2

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅰ 今村理論に《信仰》を導入する

§1

今村仁司の理論に対するわたくしの理解は その《岩波講座 宗教と科学・5岩波講座 宗教と科学〈5〉宗教と社会科学》に寄せられた論文・《隠れたフェティシズム》に触れて 開かれたと言ってよいと思います。
なによりも 《排除された第三項 Tiers Exclu 》という概念が J.ラカンの理論におけるその《純粋なる欠如 pure manque 》という概念に引き当てられたこと これが 突破口となりました。《純粋欠如》とは かんたんに言って キリスト信徒の神のことですが――そしてその場合 信仰を 教義や規範としては 精神分析のなかで 否定的に捉えてもいるのですが―― 次のように説明されることがらです。

  • オブジェ・ア objet a
  • オブジェ・エクスチム objet extime
  • 欲望‐の‐原因‐としての‐対象
  • 隠れたる神 Dieu obscure とよぶ他者 Autre

しかもこれが わたしたち人間にとって 《内なる外》という性格内容でも明らかにされている これらのことに端を発しています。

  • オブジェ・アのア a は 否定辞。エクスチム extime は 最も内なる intime と外なる extérieur との合成語だと思われます。

もっとも ただちに正確を期さなければならないことには 今村理論では 必ずしも(あるいは 断じて)個々の要素概念で 世界を認識するのではないわけですから この《内なる外としての究極の対象 objet extime / 人間にとって絶対的な欠如たる対象 objet a 》は あくまで つねに 関係構造の中に 捉えられていなければなりません。単純ながら たとえば《排除された第三項》と《〈わたし>たる人間個体》との関係 これの認識から出発するということになります。すなわち 《純粋欠如》と《人間主体》との関係 またはもっと身近な通念を用いるなら 《神とわたしとの関係》 これが一つの認識の出発点であります。

  • ただし 今村理論にとって 世界の出発点であるかどうかは 保留しておきます。

従って このような関係としては 《経験的対象なき欲望》たる《純粋状態の欲望》であると 説明されることがらです。

  • ラカン説との照合はここで省略に従うというかたちとします。ラカンをあつかうと 茶の木畑にはいります。

これについてもただちに もう少し説明を付け加えなければならないとすれば 次のようになるかと思います。《経験的対象なき》ということが 《純粋なる欠如》にかかわり それは 経験世界でのどんな対象でもないことを表わしています。また そういう想定です。同じくこのことは 《排除された / 第三項》といった表現と そのままつながっています。
もっとも これは 初めから経験対象ではないのですから 《経験世界の中から 排除されていった》ということを 意味しません。このことは のちに一つの論点になるかと思います。
対象という用語をやはり持ち出すなら 経験領域にとってまったく欠如している対象・つまり 非経験の対象が 人間関係で 想定されます。その点では そもそも非対象でもあると思われます。
しかも――次に―― 《関係》でありまた《欲望》であるからには そこに あくまで 経験的な存在である人間が からんでいます。《純粋状態の》というのは 実際には 非経験〔の純粋欠如〕と経験存在たる人間個体との 何らかの形での つながりが そこにからんでいます。実際には つねに そうであるしかない。この想定は 初めの想定から必然的に導かれるはずです。これが 《内なる外》と表現して捉える所以でもあるでしょう。
さらに《欲望》というのは 人間という経験存在の〔内面的な〕現象・行為がそこにかかわるという意味だと考えられ それは 《意志》のことだと理解してよいでしょう。《純粋状態での意志》・すなわち《経験領域に属しながら まったく非経験(超経験)たる対象との関係で 起こるところの意志》 これが 理論認識としての一つの出発点となります。
今村理論におけるいわゆる第三項排除という議論 これは それまでいまひとつ わたしには わかりにくかったのですが その出発点には このような純粋欲望ないし意志としての 《排除された第三項》との関係が捉えられているというとき これとしてよく理解することができるようになりました。
まず ここから われわれの議論を始めなければなりません。

§2

まずあらためて この純粋欲望は たとえば

経験的対象なき欲望であり 言い換えれば シニフィアンの連鎖なしに それが由来する当のもの つまり純粋欠如・・・に結びつく欲望である。
(《隠れたフェティシズム岩波講座 宗教と科学〈5〉宗教と社会科学p.167)

したがってこのとき 逆に

欲望はつねに経験的な対象への欲望である。なぜならそれは必ずシニフィアンの連鎖を通過するからである。
(同上)

ということが 同時に 成り立っています。そしてここで 議論の第一に 《信じる》と《考える》との問題が 引き出されてくると考えます。《シニフィアンの連鎖 / それを通過する》とは 《ことば / またそれを用いて考える》ことであるはずですから。つまり《シニフィアンの連鎖なしに 純粋欠如に結びつく欲望(意志)》とは 取りも直さず《信じる》ことであるでしょうから。
《信じる》は およそ《考える》がかかわる経験世界をまったく超える領域での出来事だと 考えられますから。わづかに その信じるという主体は あくまで経験存在でもあるということ これも すでに捉えました。

従って この限りで 全体的な関係構造は 次のように整理されます。

主体の欲望は分割ないし分裂しているのである。一方では経験的な欲望 他方では経験とは無縁な不可能な享受への欲望ないし意志。
(同上)

このような出で立ちで 信じる(想定の表現上 非経験との純粋経験)と考える(経験的な欲望・意志)とについて 考えていこうということになります。
この第Ⅰ章は 《今村理論に〈信仰〉を導入する》というものです。
まずあらためて この純粋欲望に《信仰》という概念を与えることにしたいと思います。すなわち 経験欲望(意志)を《考える》の領域とし そして 非経験かつ言わば純粋経験の欲望(意志) これを《信じる》の領域とし 両者を区分するというこの想定を受け継ぎ ここに立って進めたいと考えます。
なお《考える》とは無縁な 非経験にかかわる信仰領域を――それなのに――考えるというのは あくまでそれの説明のためです。想定したからには それにかんする一定の説明が必要であり そのためのことがらとしてであります。

§3

あらためてここで《経験》とは それを人間の精神=身体的な能力のありかたとして見るなら その《考える》にあたっての 経験合理性という一つの判断基準のかかわる領域だということになるでしょう。従って シニフィアン(要するに ここでは ことば)を通して《考える》の領域だということになる。一般にこの思考にもとづいて人は 表現し行動しているものと思われます。
そしてここに もし《非経験》ということを想定して話をしようというときには この・いまの経験領域をまったく超えた領域として しかもそこに《信じる》を想定することになるのですが それは いっさいの《考える》を超え それに先行するという意味内容を想定することになると考えられます。《先行する》というのは 考え方(また説明)の上でのことです。いいかえると 信じると考えるとは ひとりの人間存在にとって 互いに同時に・共時のことがらであるのですが 純粋欠如にかかわるほうの《信じる》は 人間存在のすべての条件に 先行していると捉えていることを 意味します。
先行――すなわち 信じるが考えるに先行している――というようなことを言うと 一般の議論には なじまないかも知れません。あくまでこれは 話を進める上での想定なのですが それにしても この想定に立つと 純粋欠如・またはそれから人間に到来してはたらくところの純粋欲望・つまり信仰が 人間存在にとって 無条件に成立している条件だということにも 発展しかねません。そういう観念が わたしたちの脳裡に生じやすく それが生じると 一定の思考形式になって・つまりは《考える》の領域そのものに転化して さらにこれが 固定してしまいかねません。ですが ここでは この先行説に立って 議論していきたいとは思います。
かんたんに言ってそれは 次のような内容を持たせて捉えたいためです。信じるの問題は 考えるを超えていて それは 考えても わからないということ。すなわち 考えても わかるか・わからないかが わからない(決定しえない)領域だということです。
この点をもう少し説明しておく必要があると思います。
《非(超)経験》ということを想定することは 一般にありうると思われます。しかもここでは 想定する主体が 人間であり それは それぞれ一個の経験存在なのですから その経験領域とそしていまの非経験とは それら互いの関係を 何らかの形で 捉えておかざるをえないはずです。そのときまず 今村理論における純粋欲望(つまりすでに人間の意志にかかわっている)とか《内なる外》といった想定を 受け継ぎたいと思います。
この一つの想定理論のなかにすでに 《先行》という見方も含まれているとは思いますが さらにこの点 次のように考えます。
あらためて

純粋欲望(つまり 信仰)が由来する当のもの つまり純粋欠如

であるとか それは

欲望‐の‐原因‐としての‐対象

であるとか こういった想定内容にかかわっており さらにこれを一歩進めて 次のような内容をも想定しておきたいと考えています。《先行》にかんしてですが 一般に《考える》の領域で 人間に共通の一判断基準として持たれるようになる経験合理性に対して 信仰領域が先行しているのであると。これは ほかでもなく 経験合理性が――しかしながら――人間にとって最終の判断〔基準〕なのではないと一般に考えられること このことの裏返しを わざわざ信仰領域を想定して 上のように言いかえたものであるにほかなりません。これによって 信仰が思考に先行しているとも 想定しておきたいと思います。
経験合理性にもとづく科学的な真実であるとか さらにその法則性にさえ――経験の範囲内で――先行すると思われる公理といったことがら たとえば自由であるとか平等といった理念など これらにもさらに先行する人間内面の領域として 信仰を想定しておきたいと思うのです。人間はなぜ自由なのか平等なのか このような問いは じっさい つきつめていけば もはや 考えても分からない領域に進み入るとは思われます。経験科学の法則は 真実であり合理的であり妥当であると思われますが なぜそのことだけが正しいのか なぜそのことだけで正しいと言えるのか ここには 経験思考を超えた領域があるかと思います。
じつは それだけでよいのですが――つまり 社会における人間の基本的な存在条件からして またそこに捉えられる基本的な理念からして 自明であるし 自明としなければならない ということで よいとも考えられますが―― いま《非経験》を想定するからには 説明として信仰領域をも立て その限りでは この信仰領域の先行をも 見立てておきたいということになります。経験概念としての自由や平等による説明に終わらせるのではなく これらの理念は さらに純粋欲望から由来すると 想定します。またこの点は 想定内容の展開のなかで 説明を与えたいと思っています。
もっとかんたんには たとえばわたしたち人間が どこから来てどこへ行くのか それは いろんな《考え》が出されるでしょうけれど 必ずしもその考えるによっては 最終的な判断として 決めることが出来ない。そして その《考える》に先行する《信じる》の領域を提出しても なお同じく わからないし決定しえないのですが その・考えきれない領域として 信仰を立てておくというにすぎないと言ってよいと思います。もしこのとき どこかから来ている・何ものかによって条件づけられていると考えるのなら その説明として 非経験の信仰領域が 経験思考に先行しているのだと そこまでは 捉えておくことになります。このことが 《経験とは無縁な不可能な〔たとえば 真理の〕享受への欲望ないし意志》にかかわっているのだと見るところから 出発します。

§4

さらにもう一点。
結局どう考えても 信じるのも 経験存在である人間の現象ないし行為であり そのことを免れません。その限りで 信仰も やはり大きくは 経験行為である。少なくともその主体は 有限な経験存在である。つまり 信仰領域は 経験の意志に つねにその一定の部分は かかわっていると言わざるをえません。また これによって確かに 《内なる外》として ある。《外》は純粋欠如のことでしょうが それは人間の《内なる》にかかわっている。つまりは この《内なる外》の全体が 人間の信仰という内面領域に想定される。
しかも こうであるにもかかわらず――また 《考える》にしても 人間内面のことがらであるというにもかかわらず それとは別個に―― 独自に《信じる》の領域を立てるのは そこに《経験的な対象は一切ない》ということ・したがってそれは 《考えるということではありえない》 このことに もとづきます。そして その 考えるを超えた領域について 説明するときには 人間のことばを用いて 考えつつ これを捉え表現するというのも 実際だということになっています。
この問題は さらにつづきます。
人間の《内なる外》である純粋欲望は 単純な言い方では 非経験の対象(純粋欠如)へ向けての 人間個体の志向・意志のことである。ただ これでは じっさい この純粋欲望が 経験欲望とどう違うかを言うには まだ困難なところがあります。
そもそも人間の志向はやはり大きく経験行為であるのですから この純粋欠如へ向けての意志というとき じっさいには この非経験の対象を やはり経験領域をとおして捉えざるをえないことになっている。体験あるいは直視などとしてのやはり経験をとおしてであるだろうし また少なくとも いまの想定でのように 《純粋欠如》であるとか《隠れたる神》であるとか そのような人間のことばをとおして知ってこそ それを信じる・すなわち受け容れるということにしか ならないわけですから。そのことばは 当然のごとく経験領域に属しており 《考える》につねに限りなく近くかかわっているはずです。
この問題は しかしながら次のように考えることができると思われます。
すなわち 逆にいえば 非経験の対象は――または非対象は―― 人間の・神なら神という《ことば》じたいでもなければ 《純粋欠如》ということばそのものでもないはずです。それらの文字じたいでもなければ カミなりコトバなり あるいはジュンスイケツジョといった発音そのもののことでもない からです。さらには それらの持つそれぞれの意味内容としての《観念》それじたいのことでもありません。
昔からの説明としては純粋欠如のことを 真理とか宇宙の根本原理とか あるいは摂理・正義・慈悲・愛などなどと言いかえてもいますから そこでは明らかに これらそれぞれの観念がつきまといがちです。けれども このような《観念》ではありえないということは 少なくとも想定の限りで つらぬかなくてはならないでしょう。また つらぬきうるはずです。
この意味で まとめていえば やはり 《考える経験》を超えていると言えると思われます。想定できると思われるのです。
言いかえると このように《信仰》を想定することは たとえばさらにその対象を《隠れたる神》と人間のことばで呼ぶのは あくまで その非経験を 経験たることばとしての代理をとおして知るというにすぎない。そしてこのことも 初めの想定内容であると確認しておきたいと考えます。
この想定の限りでは 人間は各自 経験を超え 考えるに先行する内面領域を持っており――あるいはここまでの想定だけでよいと考えられるけれど さらにこの点を 議論の便宜としてだけでも 内容説明しようとおもえば―― 何らかのことばとしての代理をとおして知った非経験の対象を いわば人格の全体として 人は受け容れる・すなわち信じるのだと 捉えることができると思われます。

  • この点 表現の自由との兼ね合いで 難しい問題が持ち上がります。信仰の重要内容をけなすならば その人格を否定されるという受け取り方をしてしまうかも知れないゆえ。
  • おそらく しかしながら この人格存在を否定してはいけないという原則も 表現の自由の上に成り立っているというものであり これも大原則であるでしょう。
  • そもそも 人と違った新しい信仰を言い始めることも 表現の自由の上に成り立っている。
  • 信仰にかんすることばは あくまで 代理の表現であるという大前提が省みられなければならないとは思います。あとは 待ったなしの情況において きめ細かな配慮が大事だと思われます。人格と人格との ことばを通しての あくなき話し合いが肝要かと思います。

経験存在にすぎない人間も その人格が一人ひとり このような内面の構造として 成り立っているのだと思われます。この限りで 純粋欠如から到来してわれわれの内にはたらく純粋欲望 これを 信仰とよぶという想定です。
あるいは いま さらに別の見方によるなら 純粋欲望じたいは むしろ無条件に非経験的にはたらくというときには この純粋欲望を われわれがおのおの純粋状態において受け容れること これを 信仰とよぶのがよいかも知れません。純粋欲望の純粋なる受容 これが 信仰なのだと。いささか図式的にいえば 純粋欲望が ほとんど非経験〔から〕のはたらきであり これを経験存在たる人間個体が その純粋意志で受け容れること こういった説明になるかと。

  • こう想定すれば この信仰にかんして 《なにも無い》という受容の仕方がありえて そのいわゆる無神論の立ち場も 経験合理的にありうるという見方ができるでしょう。

いましばらく 《導入》がつづきます。
つづく→2006-02-02 - caguirofie060202