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哲学いろいろ

#37

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§46(パスカル

塩川徹也著《パスカル 奇蹟と表徴》(日本語版 1985)が出たので これに関して 一章を割かせて欲しい。これは パスカルを ひとりのキリスト教護教論者として捉え その護教論の生成過程を かれの姪であるマルグリット・ぺリエの奇蹟事件への立ち会いをとおして 位置づけ 跡づけようとした作品である。《パンセ (イデー選書)》として現在われわれの目に触れているものが この未完に終わった護教論の 構想また論述内容の覚え書きだというものである。
《護教論》の生成過程に注目するということは その発想が 方法を形成する。したがって われわれの言う生活態度と関連する。この点で とりあげたい。

結論として 奇蹟に関する著作と護教論との二つの企ての間に決定的な視点の変化が生じたこと そしてパスカルが奇蹟に関する思索を進めていく途中で キリストの奇蹟を眼のあたりにしたユダヤ人の不信仰を護教論の論証に組込むことができると意識した瞬間がおそらくあったと主張できるのではあるまいか。パスカルが 《無神論者たちを完膚なきまでに論破し ぐうの音も出せないようにする手立て》(パスカルの姉ジルベルトの証言)を発見したと信じたのはまさにこの直観においてではなかっただろうか。そして 奇蹟に関する著作の企てに終止符を打ち それをついに《キリスト教護教論》の企てに転化させたものもまた この直観ではなかっただろうか。
(5・2〔その末尾〕)

パスカル 奇蹟と表徴

パスカル 奇蹟と表徴

わたしたちの結論としては 考えるに パスカルは このような思索と著作の生成過程をとおったとするなら さらにかれは――わたしたちは我田引水の議論をするのだが―― この《護教論》の企てから いま一つの《決定的な視点の変化が生じたこと》 そしてそれは 現在の《パンセ (イデー選書)》にすでに 現われているようになっているということ これを 提出したいとおもう。

護教論の特異性は それが理性の領域と権威(または なぞ)の領域の境界線上に位置して 権威によってしか認識することのできない事柄を説得すべく理性に訴えかけるという点にある。
パスカル 奇蹟と表徴 〈結論〉)

というとき あるいは ふつう一般に護教論というときにも この護教論が 護教論で いけないという法はないのであって そのことをとやかく言おうと思わないのであるが 《パンセ (イデー選書)》は その形式を超えているとわたしたちは 語りたい。それは 上の一つの定義のほかに

《護教論》が真に有効であるためには 神のしるしに対する人間の無理解と抵抗を考慮に入れて その理由を説明できなければならない。
(同上)

と言われるとき わたしたちは このような一つの性格内容は 前提ではあっても 目標になるとは考えないからである。パスカルも 《パンセ (イデー選書)》から察するに そういう構想をいだいたことはあったかも知れないとしても 同時に すでにその奇蹟論および護教論の直観と構想から抜け出ていると わたしたちは考える。くりかえすと

《護教論》において 《表徴的なるもの Figuratif 》の観念に負わされた二重の任務は 神の啓示である聖書の真の意味を解読する必要性を理解させると同時に その霊的な意味に対する人間の無理解の理由を説明することである。これが 《表徴の理論》である。
(同上)

これが 《直観》の内容であるが それによって 変化した視点のもとに企てられた一つの構想――つまり《護教論》――をもパスカルは 途中で突き抜けたとわたしたちは 考える。前章に引用した断章に明らかに見られるように 《人間の二重性》にパスカルはこだわっていて それは この塩川が言うように 《表徴の理論》のもつ《二重の任務》と呼応するかのごとくであって それをしもヴォルテールは 表現形式(会議での発言の形式)の問題としては 批判したのだという理解が ふつう一般であるかのごとく見えるのであるが わたしたちは パスカルが そこに とどまってはいないだろうと考える。
こうなると よほど とんまな(時代錯誤の) パスカル弁護論になってしまいかねないと認めなければならないのだが たとえばパスカルは 《我々には二つの魂があると考えた人々があるほどである》と言うのであって 《二重の存在》などという考えを葬ろうとするヴォルテールの見解と その内容は 同じ一つの系譜だと おそらく(論証はしないが) 見なければならないはずである。奇蹟論を越えた護教論をさらに その思索と構想の途中で こえたであろうということは かれはただ 単なる人間学・自己学として 思索をつづけこれを書き留めるようになっていたのだということである。
言いかえると 信仰動態としては不信仰 主観動態としては あたかもルウソにとってののような無理解およびそれから来る迫害 これらに対してパスカルは かれも 基本的に関知しないという会議の立ち場に立ったと われわれの視点から それこそ好きなように とらえる。
これは パスカルの弁護というよりも パスカルを読んだときのわれわれの感受作用とその内容の弁護である。そうでなければ パンセは すべてが 表徴 Figures である。理論としてすべてが表徴だという意味で 表徴の理論である。すなわち わたしたちが言いたいのは そのときでも パスカルは 《表徴の理論》で護教論を展開したのではなく パンセ理論を一つの表徴として一個の人間の 先行する普遍的な会議(同感)を打ち出したという捉え方である。
そうだとすると それなら 表徴の理論――つまり要するに 理念をうんぬんするけれども 理念主義志向にならずに この理念も 表徴=しるしでしかないとする 思索と表現との形式――は それじたい 一つの構想といえば構想なのであって この構想でもある一視点にもとづいて さらに別の一つの構想たる護教論を企てているとは みとめがたいのである。あるいは えこひいきがあるかも知れないのだが なおつづけよう。
ともあれ われわれの言うところは パンセ全体を 一つの表徴の理論としても・しなくとも パスカルはこれを 基本単一会議での自己の発言として 思索したろうと思われ――つまり 単純な発言であったろうと考えられ―― そこには 二重会議が生じ得て そこからの無理解あるいは攻撃もあると考えたと思われるし パスカルにとってこれらの事柄は たしかに 直接的にも間接的にも――じっさいには大いに直接的に―― 《神の啓示である聖書の真の意味》の中に説かれているのだと信じていたと思われるのである。
その結果 護教論が書かれたと 見る人によっては見られるであろうし ただし はじめの意図としては――それが 途中から変化が生じてそうなったのだとしても―― 護教論をも目的としたとは ちょっと思えない。だから このわれわれの感覚がもし えこひいきであったとしたなら それは かれが 護教論をはじめの意図として書いたのだとすら捉えられるようになったときでも その結果は逆に 護教論の範囲をこえたものが 出来上がったのではないかというものである。
いま述べていることがらは わたしが パンセをそう読んでいたという単純なことの確認にしかすぎず 塩川の著作をよんだあと なるほど わたしの理解したパスカルには そういう過程の経緯があったのかという認識を経たのちに なお残っている(持ちこたえている)理解を なんの論証もなしに やはり確認して つづったものにすぎない。《パスカルといかにつきあうか》(塩川 〈あとがき〉)は そのような《自分の好きな面だけを読みと》る行き方ではいけないという主旨も込めて 塩川のこの著作は書かれているものであるから 論証になるかどうか 一点として 次に《奇蹟》観の問題に触れておきたい。
この奇蹟観については わたしの考えを述べるのみなのであるが それがパスカルと衝突するとは思わないという意味である。
具体的にいって このマルグリットの聖荊の奇蹟は かのじょ個人の問題である。もちろん その叔父であり名付け親でありまたこのときこのポール・ロワヤル修道院と深く関係するところのブレーズ・パスカルが かのじょの家族やまた修道院の他の人びととともに マルグリット個人の問題といえども それにかかわることも 行きすぎではなく ふつうの出来事である。問題は そこまでだと考えられる。当時の教会制度上の問題として 奇蹟の認定を求め 訴訟にまでなったこと これをも含めて そこまでだと考えられる。
奇蹟への無理解と抵抗 これは 一般の人びとに関心を呼んだということとともに ある程度 不可避なものだと考えられ 考えられた上で しかも どうでもよいことである。受容と反応の面で リスボア大震災の場合と 同じような事件だとさえ考えられる。

なぜ奇蹟は それがしるしとして表現している真理について 《僅かな人》しか説得しないのか。換言すれば どうして人間は真理の証拠たる奇蹟に逆らうことができるのか。
パスカル 奇蹟と表徴 4・4)

パスカルは こういう疑問を持ったと考えられ 《この疑問に対して ルアネー嬢宛ての手紙は 〈隠れた神〉を中心に据えた世界観を展開することによって 一つの解答を与えようとしている》(同上)。だが そしてあるいは この思索をとおして《護教論》を書く構想を持つにいたったということかも知れないが 知れないにもかかわらず だが 奇蹟にかんする著作の企てが 一般的なその護教論の企てへ転化したと見るとするならば この護教論は――ある意味で 一貫した主張をもってでもあるが―― 表徴の理論に変わった。
ということは 表徴の理論が一貫しているとしても 《疑問》は すでに解けている。つまり 奇蹟観は 基本的にマルグリット本人(目の病気が癒された)の問題だということで 確立したものと考えられる。
疑問が解けたから もう何の用もないとか言うことではなくて 著作の動機と構想とに 主要な位置を占めるものではなくなっている。護教論へ変質した時点でそうだし たとい変質しなくとも 表徴の理論はすでにそういう内容のことだし 逆に 奇蹟事件が尾を引いているとするならば それはむしろ 護人論としてであると考えられる。つまり 基本的に 本人であるマルグリット あるいは 特定のその周囲の人びと そのかのじょらへの人間擁護ではあると考えられる。これが 奇蹟観の必然的な結果である。
護人論は――それだとしたなら―― パスカルにとってむろん 聖書に根拠を持つが すべては人間のこと・おのおの自己のことにかかわるものなのだから ここでも すでに人間学一般のこととして 著作は書かれるようになっている。そして ただし 基本人間学を 聖書にもとづくというのなら その意味で 護教論であるとも言ったって かまわないと思うのである。
奇蹟は 表徴としてとらえられているが――つまり 人間の主観真実の基本単一は 真理の唯一そのものではなく 理念とか形相とか内なる人とかであるなら この真理の似すがたであるし 奇蹟とか事態とかであるなら この真理のしるしである と捉えられているが―― パンセは そのまま全体が 表徴としての奇蹟論(あるいは 奇蹟にかんする表徴理論)なのではないのだから あくまで・そしてもはや《パンセ(思索)》なのであって 奇蹟事件にからんだ疑問から発した護教論にとどまるものではないように思われる。護人論であるならば すでに一般基本的な会議論となったのだと考える。これは ルウソやヴォルテールの発言と その意図・性格の面で 変わらないものなのである。そうではないだろうか。

真の奇蹟が信じられないのは 愛の欠如のせいである。《ヨハネによる福音書 (アレテイア--釈義と黙想)

サレド汝ラハ信ゼズ 我ガ羊ナラヌ故ナリ。

偽りの奇蹟が信じられるのも 愛の欠如のせいである。《テサロニケ人への第二の手紙》二章。
パンセ (中公文庫) 断章826.塩川・前掲書4・4に引用)

一例としてこれを見ると 《疑問》は尾を引いていると考えられる。パスカルが こう書いたというのであるから。だが 印象としてのみ言うのであるが これによって 《神のしるしに対する人間の無理解と抵抗を考慮に入れて その理由を こうして 説明でき》た ゆえに 《真に有効である〈護教論〉》が それに反対する者たちにとっては 《ぐうの音も出ない》ように 説きえたという性質の文章ではないように思われるのである。
わたしはまだ 《自分の信仰あるいは信条の物指しでパスカルの思想を測り その価値について判断を下しているのだということは認めなければなるまい》(塩川 〈あとがき〉)。塩川の言うとおりであるのだろう。このような態度については

それが悪いというわけではない。特に自らの信仰や思索を深めることを目的としてパスカルを読む場合 それはおそらく正当な態度だと言えよう。しかしそれはパスカルをわれわれの目的に合わせて手段として利用することにならないだろうか。われわれとは全く異質の感じ方 考え方をうちに潜めながら それにもかかわらず あるいはそれゆえにこそわれわれを魅了してやまない真の《他者》を読者を通じて発見するためにはどうすればよいのだろうか。
(塩川 前掲書〈あとがき〉)

と塩川は言っているのであるが こういう悩みは 幸か不幸か わたしの裡には起こらなかった。

  • つまり あまりにも安易に《他者の発見・理解》を言い張り続けていないかというのが わたしの側からのささやかな反論である。そんなことは 神でもないかぎり むずかしい。ということは もし塩川になんらかの啓示があったのなら わたしの負けである。
  • Wikipédia の《Blaise Pascal》の欄から 《奇蹟》の項目。

Miracle
Quand Pascal revient à Paris, juste après avoir surveillé la publication de sa dernière Lettre, sa croyance religieuse est renforcée par sa proximité avec un miracle apparent qui concerne sa nièce Marguerite Périer âgée de dix ans, dans la chapelle du couvent de Port-Royal. Sa mère Gilberte Périer raconte dans La vie de Monsieur Pascal qu'elle a consacrée à son frère :

« Ce fut en ce temps-là qu'il plut à Dieu de guérir ma fille d'une fistule lacrymale, dont elle était affligée il y avait trois et demi. Cette fistule était d'une si mauvaise qualité, que les plus habiles chirurgiens de Paris la jugèrent incurable. Et enfin Dieu s'était réservé de la guérir par l'attouchement d'une Sainte Épine qui est à Port-Royal ; et ce miracle fut attesté par plusieurs chirurgiens et médecins, et autorisé par le jugement solennel de l'Église. »
Plus tard, les jansénistes et les catholiques utilisèrent pour leur défense ce miracle bien documenté. En 1728, le pape Benoît XIII s’en servit pour montrer que l’âge des miracles n’était pas achevé.

Pascal mit dans son blason un œil surmonté d’une couronne d’épines, avec l’inscription Scio cui credidi (« Je sais qui je dois croire »). Sa foi renouvelée, il se décida à écrire son œuvre testamentaire, non terminé, les Pensées.