caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

補論――使用価値のゆくえをめぐる会議――

§15

マルクスの《研究は商品の分析をもって始まる》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・1)というものだが 《商品はまず第一に・・・その属性によって 人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である》(同上)とき この《第一》の内容すなわち《使用価値をもつものであること》を どこまでも有効なものに保とうとすれば われわれは《欲望》をもって始めるべきだと考える。
すなわち 《資本主義的生産様式の支配的である社会の富は 〈巨大なる商品集積〉として現われ 個々の商品はこの富の成素形態として現われる》(同上)とき ここでも当然 資本主義の以前と以後との歴史をつうじての一般的な形式および そのときどきの現段階での特殊な形式 との二つの側面をもった 人間の欲望充足という形態 これの考察からわれわれは始めているものと考える。力点の置き方が すこし変わるかも知れない。
じっさい 物の有用性によってわれわれが欲望を充足させることと この使用価値を求めて 物を交換するときの欲望と そして 交換しうるということの価値をつくりだすために労働する欲望 あるいはさらに この交換価値を自分の所有するものとして増やしたいという欲望 これらの欲望は それぞれ互いに異なるものである。そして それらはみな一般に 人間の欲望充足の行為である。
一つの必要条件としてだけいえば 交換がはじまれば 物は 商品となっていく。この商品の資本主義的な生産様式における形態の研究は じっさい通史的に 人間の経済生活の考察に属する。《まず第一に》われわれの出発点は この欲望充足の行為または生活の経済行為一般ということにある。出発点を 経済的な側面で代理させるのは――つまりこれは 一つの代理としての考察であるはずだが―― 社会生活において経済活動は基礎だからである。
生活一般の出発点において 経済基礎に対しては その欲望充足する行為の主体 これが 基本である。主体基本が 経済活動を基礎として 生活一般を出発させる。この出発点は 生活の主体たる人間という基本原点にとって 生活態度のことである。
生活態度は 一般的にそして抽象的に 価値観といえるが 経済基礎にとっては その価値をもとめての欲望充足の行為として・行為の形式として 現われる。または すでに現われているものを 価値観ないし生活態度という。これは 考察(知解)の問題としては 出発点である。
欲望の知解・その対象の知解・その充足行為の手続きの知解 そしてまた これら知解への意志・あるいは知解された内容を実行することの意思(意図) このような意志と知解〔さらに記憶〕とが 先行するということをもって 経験的にも 生活態度というものを 出発点とすることができるし 価値観といった思考上の問題であっても 経験行為の一出発点であると考えて すすむことができる。
この出発点に焦点をあてて どこまでもわれわれの経済学としての踏み出しを 考察していこうとおもう。《商品の分析》というのと 少し力点がちがうと考える。マルクスが 《一つの物の有用性は この物を使用価値にする。しかしながら この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは 商品体の属性によって限定されていて 商品体なくしては存在するものではない》(同上)というのと同じであるが われわれは ここで この踏み出しの側面に力点をおきつづけるという態度をとる。
《欲望の性質は それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと ことの本質を少しも変化させない》(同上)と 同じく考える。使用価値の問題に力点をおく出発点をもって始めるというときでも 使用価値の具体個別的な種類の問題によって 研究をすすめようというわけではない。ただし マルクスがつづけて《ここではまた 事物が 直接に生活手段として すなわち 享受の対象としてであれ あるいは迂路をへて生産手段としてであれ いかに人間の欲望を充足させるかも 問題となるのではない》(同上)というとき この《いかに欲望を充足させるか》は われわれにあっては 問題でありつづける。
ただし それほど マルクスの言おうとすることと ちがうものでもない。われわれの観点では 《欲望充足の仕方》が 直接に生活手段としてであるか・あるいは生産手段としてであるかは そのように迂回をともなって全体として構造的なものとなった場合だとみるのであり そのあとは これはこれで 同じく済ませるものである。だから 力点が そのときにも むしろ各自の主観的な 欲望充足という経済行為基礎にあり その使用価値というまず第一のものを 商品のどんな形態にあっても・生産のどんな迂路の過程にあっても 追い続けようということにある。
生活一般の出発点としての態度(価値観・生活の方針)に立ち 経済活動という基礎を考察対象とし はじめの生活態度の主観的な側面・だから使用価値の行方 これを――どこまでも まだ 踏み出しの地点でだが―― あつかっていこうということである。
人間学としていえば これは 欲望とは何ぞやといった問題につながり 経済学としては 経済的な範疇の人格化を まだ・あるいはわざと 見ないかたちである。すなわち 後者を言いかえると 社会生活について経済的な側面を基礎として考察するといっても 人間一般もしくは生活一般を 出発点としてまだどこまでも 保持していくというかたちである。
マルクスも 個人を経済的範疇の人格化としてとらえるといっても それは 説明の手段であり手法なのであるから その意味で われわれの観点とは 力点がちがうのみだと おおよそのところでは 考えられる。
叙述が成功するかどうか その度合は別として われわれの観点は マルクスの意図するところと 内容のうえでは 重なるものだと考えるし われわれのこの考察態度(けっきょくは生活態度)は マルクスの意図する内容を 直接に 前面に出して 言いきっていくという恰好のものである。成功如何は 別問題である。卑下しようとも思わないから 結局は どちらも相対的なものである。なぜそうするかは すでに――主観的な理由として――のべた。
マルクスは その意図をながく持続させ 途中では(または この著《資本》の全体をつうじても) しめくくらないかに見えると 考えたからである。ただし もっとも あたらしい資本論をはじめようとするつもりも 能力もない。出発点の踏み出しとして 考察する。
要するに すでに見た資本主義的な経済行為形式への《跳躍点》をふたたび 経済活動に対する《出発点》として捉えなおし あらためてこれの生活態度一般およびその歴史的な過程と構造とを 使用価値の社会的なゆくえの問題としてのみ あつかおうということである。

§16

欲望というとき 経済基礎に焦点をあてる場合にも 基本的にいえば 欲望の主体――すなわち人間 いやさらに わたし――がおり 欲望の対象があり 欲望そのものが持たれており そうして 欲望充足の行為がそれにつらなっている。充足の行為には その対象を獲得しなければならない したがって 労働によって物を生産すること あるいは すでに生産されたものを交換をとおして得ること そして消費することを 含む。
欲望の対象は 主体にとって まずはどういう主観的なものであれ 使用価値をもつものであり この使用価値が生産され消費される。交換をとおす場合には そこで 交換価値という価値のいま一つ別の形態をも生じさせている。この交換価値は――きわめて素朴にも―― 主観相互の関係から成り立つ。
何らかのかたちですでに 欲望充足に際して ものの交換をとおすことを前提にしよう。しかも ただちに資本主義ではないはずだ。使用価値――つまり欲望の内容のことだが――という主観的なものは すでに 客観的といわずとも 主観と主観との相互の関係的なものとなっている。交換価値は 使用価値にかんする主観の意図どうしの同意関係において 成立する。
ここで 欲望とは何であるか。あるいは  使用価値にとって人間が主体であるということは どういうことか。価値の使用(所有ないし消費)の主体が 交換の主体ともなるというのは どういうことか。
欲望は 使用のためにある。生産するのも 交換するのも 消費のため・あるいは所有のためである。生きることの 基礎的な一環としてである。欲望とは何ぞや。たんに生活態度の手続き――心の動き・その意識 にもとづく手続き――ではないのか。すなわち 欲望は存在するものではない。人間が存在するものである。この主体は 客体(もの あるいは こと)とのあいだに 交渉をもつ。はたらきかける。欲望は その間の手続き上の 心理・意識である。われわれは 欲望を充足させるのではなく 生きることを充足させるのである。生活を確立させることが その基礎をなすが そのとき 欲望という意識の手続きを踏む。ただそれだけである。意志は 欲望を利用し 自己を活用する。存在を維持しつつ 自己を活用する。欲望にさからってでも 自己の実現をはかる。意図は 使用価値を生産しようとし あるいは得ようとして交換しようとする。すなわち 欲望が 使用価値として一つの手続きの要素となっている。
互いの意志としては 交通である。いや 出発点の生活態度として 交換価値は 交通に属する。基本の意志・存在・生きることとしては 関係ということができる。基本的には 関係が 交通に 先行している。
主体は 意志をもった存在として生きるとき 互いに 関係している。先行する領域で 関係しあっている。生活するとき 関係の出発の一時点として 生活態度を形成している。これは 交通の態度でもある。生活の基礎は 使用価値の獲得である。交換を前提するならば 生活態度は 使用価値の獲得のために 交換をもつ。交通において 交換をおこなう。
ここで 使用価値は 自分が交換価値という様相をもつことを 発見するはずである。交通において人は 生活態度を 意図のまじわりとする。相互の出発点の出会いである。出発点が意図をもって 互いの交通関係のなかで 使用価値の交換を話し合う。その同意が 交換価値をかたちづくる。使用価値は いわば自分の仲間(類)を見いだすわけである。その友情とか信頼(ないし信用)が 交換価値(ないし価格)の成立である。主観的な使用価値が 主観相互のそして主観共同の 価値〔額〕をもつ。欲望というならば ここに 欲望充足の基軸がある。ほかのところにはないし 欲望というものも 生きること・生活・そして生活態度の意図の 信号である。交換価値のみをとり上げれば 信号は記号でもある。
われわれに 欲望はない。欲望と名づける信号があるだけ。使用価値への意図そしてこの意図どうしのまじわりとしての信号。これが 交換価値として記号となるなら 欲望という名の記号が 人間の交通をそれとして代理する。経済的な交換という基礎において 使用価値は 交換価値という信号として 表現され 信号は 交換基礎そのものの問題として 記号となることができる。記号となった使用価値は 商品とよばれる。
商品は じっさい 信号関係である。使用価値の主観共同化された記号関係でもありうる。
主観の意図は 信号である。信号と信号との出会いと同意とは 記号をもつ。交換価値である。ここに 使用価値ないしその品物は 商品とよばれる。商品の巨大な集積は 信号の交通関係であるが 記号の交通体系でもありうる。後者は 象形文字の世界として現われることができた。商品生産の交通関係は 基本的に――とうぜん――人間の主体どうしの関係であり 実際的に生活態度どうしの出発点が 構造過程的に交わるところのものであり 記号として象形文字の世界をかたちづくりえた。

  • 象形文字というときには 多少とも 会議の際の密約のことを含んで言おうとしている。

すなわち 使用価値をめぐっての主観共同の信号形成の 複雑化であり また 形成された信号の関係過程の一人歩きでもある。
主観共同の信号関係であるとともに その既に成立したところのものである記号体系の過程ともなった商品生産の社会的な形態 これを 生活態度という出発点において そして 経済学の踏み出しの時点として 明らかにしていくことが ここでの目的である。
つづく→2006-01-04 - caguirofie060104